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復旧によって判明した羽越線の厳しい現実

この夏、豪雨で各地のJR線が相次いで不通に

 梅雨末期に見舞われた豪雨によって各線は大きな被害を受けた。2006(平成18)年8月5日(土)現在、JR線は東日本中央線岡谷-辰野間、羽越線鼠ケ関-あつみ温泉駅間、JR西日本芸備線備後落合-備後西城間、三江線三次-江津間(全線)が不通となっている。
 このうち、羽越線は8月9日(水)16時ごろから、中央線は8月8日(火)の初列車から運転を再開する見込みだ。しかし、芸備線と三江線の開通の見通しは立たず、運転再開まで相当な期間を要するという。詳しい状況は不明だが、一日も早い運転再開を祈りたい。
 さて、今回の「鉄道よもやま話」で取り上げたいのは羽越線である。まずはこの路線の被災状況から見ていこう。
 2006(平成18)年7月13日(木)の20時10分ごろ、山形県鶴岡市小岩川で土砂崩れが発生。小岩川(こいわがわ)-あつみ温泉間の線路のうち、およそ50mが高さ10mほどもある土砂に覆われてしまった。
 災害発生時に列車は通っていなかったため、幸いにもけが人は出ていない。しかし、定刻では新潟18時43分発、酒田20時58分着の特急「いなほ11号」が小岩川駅の2駅手前の府屋(ふや)駅を20時05分に発車していたはずだ。現場の通過時刻は20時15分ごろと推測されるため、まさに間一髪で難を逃れたと言えるだろう。
 土砂崩れ発生とともに羽越線鼠ケ関(ねずがせき)-あつみ温泉間は不通となる。今回の土砂崩れでは羽越線のすぐ西側を通る国道7号も土砂に埋まったため、当初は代行バスを運転することもできなかった。7月28日(金)になってようやく国道7号が全面復旧したため、鼠ケ関駅とあつみ温泉駅とを結ぶ代行バスが走り始めている。

羽越線とはどのような路線なのか

 新津と秋田との間の271.7kmを結ぶこの路線はJR東日本が第一種鉄道事業者であり、JR貨物が第二種鉄道事業者だ。「JR時刻表」には「羽越本線」という立派な名で掲載されており、「さくいん地図」によれば幹線として扱われている。
 ところが、実際の羽越線は幹線と呼ぶにはやや寂しい状況だ。今回不通となっている区間に運転されている定期列車は1日に上下33本ずつ。内訳は旅客列車が上下21本ずつ(特急列車は11本ずつ)、貨物列車が上下12本ずつ(下り2本は日曜日運休、上り1本は日曜日運休、上り1本は月曜日運休)である。
 『平成15年度 鉄道統計年報』(国土交通省鉄道局監修、政府資料等普及調査会、2005年3月)の638〜639ページに掲載されている「(24)JR旅客会社運輸成績表(延日キロ、人キロ、平均数)によれば、羽越線の旅客輸送密度は4054人だ。JR東日本の他の路線でいうと左沢(あてらざわ)線(北山形-左沢間24.3km)とほぼ同じで、JR各社の路線の数値としてはJR東海の高山線(岐阜-猪谷間189.2km、猪谷-富山間36.6kmはJR西日本)の4036人が最も近い。いま挙げた左沢線も高山線も幹線と比べて運賃の高い地方交通線である。
 東北新幹線の開業で東北線の盛岡-目時間82.0kmがIGRいわて銀河鉄道へと転換された。同社の旅客輸送密度は3917人だから、この路線とほぼ同等と考えてもよいだろう。
 貨物輸送の状況は不明だ。ただし、1日12往復の貨物列車が運転されている路線はそう多くはない。イメージしづらい比較で恐縮だが、中央線国立-竜王間で11往復だから、JR貨物にとって重要な路線であることは確かだ。
 土砂崩れの起きた小岩川-あつみ温泉間4.4kmは単線区間だが、その前後の区間である府屋-小岩川間9.5km(途中に鼠ケ関駅がある)とあつみ温泉-羽前大山間23.6km(途中、五十川、小波渡、三瀬、羽前水沢の4駅がある)は複線区間である。このうち、鼠ケ関-小岩川間は1969(昭和44)年9月19日(金)に、あつみ温泉-五十川間が1970(昭和45)年9月29日(火)にそれぞれ複線化された。つまり、今回土砂崩れが起きた区間はその両端がすでに複線化されたにもかかわらず、約36年間もの間、単線のまま取り残されてきたのである。
 小岩川-あつみ温泉間は急曲線の続く区間だ。小岩川駅を出ると半径600mの左カーブに始まり、半径402mの曲線が右、左、右、左、右、左、右と7回も連続し、半径805mと同402mの左カーブを経てようやくあつみ温泉駅となる。
 海岸線に近いこともあり、勾配はそれほどきつくはない。それでも、小岩川駅すぐには10‰の上り坂があり、続いて5‰の下り、3.3‰で上り、10‰と3.8‰の下り、ようやく平坦となったのもつかの間、7.6‰、3.3‰、2.3‰の上りであつみ温泉駅に着く。

抜本的な改良策とは新しい複線を敷設すること

 JR東日本は今回土砂崩れの発生した法面(のりめん。切り取り、盛り土などでできた人工的な斜面を指す。この場所は切り取りによってつくられた)には以前から亀裂が入っているとして改修計画を立てていたという。しかし、抜本的な改良策は法面の補強ではなく、もちろん新線の建設である。つまり、内陸側に長大なトンネルを掘り、複線化と急曲線の解消とを併せて実施すべきだったのだ。JR東日本も、そして単線区間のまま残した国鉄もそれはわかっていたのだろう。だが、投資に見合った効果が得られるのかは疑問符が付けられていたため、現在までこのままの状態で残されてきたのだ。
 大ざっぱな算出だが、筆者は小岩川-あつみ温泉間の複線化と路線改良とには少なくとも200億円は必要だと見ている。この金額を何年で回収できるのかはわからない。地元がいくらか負担してくれるかもしれないが、財政難の折、折り合いが付くのかどうかも不明だ。
 かくして8月9日16時以降、羽越線小岩川-あつみ温泉間の列車は再び従来の線路を走り出す。鉄道旅行に関する出版物に携わる人の中には車窓から日本海が見えると喜ぶ人もいるかもしれないし、いっぽうでは抜本的な改良の可能性が消えたと落胆する人もいるだろう。とにかく今回の復旧の方策を見て、改めて残酷な事実が示された。それは「羽越線はあまり儲かっていない」という点である。

参考文献
日本国有鉄道編、『日本国有鉄道百年史 索引・便覧』、日本国有鉄道、1974年
宮脇俊三、原田勝正編、『日本鉄道名所 勾配・曲線の旅2』、小学館、1986年12月

2006年7月30日

「鉄道よもやま話」を更新しました
「鉄道よもやま話」に「JR西日本考」を追加しました。

2006年7月30日

「鉄道よもやま話」を更新しました
「鉄道よもやま話」に「JR西日本考」を追加しました。
  • 2006.07.30 Sunday
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JR西日本考

不愉快なニュースが全国に発信される

 見出しを見たり聞いたりするだけで憂鬱な気分となるニュースの多い昨今、鉄道界にも心が暗くなるニュースが駆けめぐった。すでにご存じのことと思うが、2006(平成18)年7月27日(木)午後に報じられたJR西日本に関するニュースである。
 同社は7月29日(土)と30日(日)の両日、2005(平成17)年4月25日(月)に発生した福知山線での脱線転覆事故の報告会の開催を計画した。その際、示談が成立した負傷者数十人には開催を告知しなかったというのだ。
 多くの皆様はここまで聞いて、もうそのニュースの詳細を見るのも聞くのも嫌になったのではないだろうか。筆者もその一人である。
 悪いことに、29日に開催された説明会では事故の責任を取って辞任した幹部が子会社の幹部に就任したことをめぐって紛糾した。JR西日本は人事についてすでに決定した事項であるために変えられないと理解を求めるものの、負傷者や遺族には納得できるはずもない。この数日間を出来事を振り返ると、JR西日本は一体何を考えているのかとだれもが感じられたに違いない。
 29日晩、本ホームページの読者の方からメールをいただいた。その方もやはりJR西日本の対応について気に病んでおられるようだ。暗い話題は忘れてしまいたいのはやまやまだが、ここでJR西日本について考えてみることとしたい。

破滅は願わない。だが時期尚早ではないだろうか

 順序は逆だが、まずはJR西日本の不可解な人事について述べることとする。非常に乱暴な言い方ではあるが、究極的には辞任した幹部たちの生活を支援するためだろう。筆者は、責任のある立場の人間には責任を取ってほしいとは思うものの、人生の破滅までは願わない。したがって、どこかで折り合いを付けなければならないが、いまの段階では端から見ても転出は早すぎるように感じられる。
 とはいうものの、たとえ3年あるいは5年という間を置いて職務に復帰しても必ず非難されることだろう。これは仕方がない。これもすべてはJR西日本が取り返しのつかない大事故を起こしてしまったからだ。それでも、大多数の負傷者や遺族の皆様が「もうよい」と感じられる時期がいつか到来するはずだ。その日まで待つべきだし、幹部になる際にはそのような責任をあることを自覚したうえで就任するべきだっただろう。

何を言っても行っても非難される。それは加害者の宿命

 さて、示談の成立した負傷者には報告会の日程すら伝えなかったという点については少々入り組んだ事情が存在する。JR西日本が一方的に告知を打ち切ったのであれば、同社には弁解の余地もない。米国の航空会社の事例でも参考にした結果、あまりよい意味で用いられることのない「グローバリゼーション」とやらに毒されたのかとあきれてしまうのがせいぜいのところだ。
 ところが、事実はそうではない。示談が成立した負傷者に対し、JR西日本は今後報告会等の日程を伝えてよいかどうかの意思確認を行い、もう二度と同社とかかわりたくないので連絡不要と答えた方々に対してだけ告知しなかったというのだ。
 となるとJR西日本にも同情すべき点もあるが、実際のところ意思確認は徹底していなかったという。「連絡 要 不要 どちらかに○を付けてください」という主旨のアンケートを取ったのではなく、交渉で発せられた言葉のニュアンスから判断したのだろう。
 アンケートを取れば強要しているようだと非難され、遠回しな言い方で意思を確認すればはっきり聞くべきだとたたかれる。そもそも、全員に報告会等の開催を伝えれば、もう二度とかかわりたくないのにと怒りをぶつけられ、かといって連絡しなければ何とも非情な会社だとなってしまう。JR西日本にとってはほとほと損な役割だし、少しでも円滑に事を進めたいという気持ちは理解できる。
 これまた繰り返しなのだが、何をやっても非難や怒りの矛先をぶつけられるのだと考えるほかない。どうあっても取り返しのつかないことをしてしまった張本人はまぎれもなくJR西日本自身だからだ。

 今回、JR西日本をめぐる一連の騒動で再認識したことがある。それはつらい事実に目を背けてはいけないという点だ。もちろん、皆様に嫌な思いを強いるつもりは全くない。そうではなく、鉄道について他の人に説明しなくてはならない筆者のような立場の人間が逃げてしまったことについての反省なのだ。
 こうしたことを見るにつけ聞くにつけ、鉄道は夢の世界を走るテーマパークの乗り物ではないのだと思う。鉄道は社会の一員であり、現実の世界を成り立たせる一要素である。したがって、社会の問題点はすべて鉄道にも投影されているのだ。だからといって未来は暗いのかというとそうでもない。現実の世界がお先真っ暗ではないのと同様、鉄道にも光は射している。ただし、そこに至る道のりは長く険しい。少々、観念的に過ぎるのかもしれないが、いま本当にそのことを痛感する。

2006年7月23日

「書評」を更新しました
結解学氏の『JNR EXPRESS』についての書評を掲載しております。

2006年7月23日

「書評」を更新しました
結解学氏の『JNR EXPRESS』についての書評を掲載しております。
  • 2006.07.23 Sunday
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『JNR EXPRESS』


結解学、『JNR EXPRESS』、ネコ・パブリッシング、2006年7月。定価:2800円。

 書店をのぞいてみると、いまや鉄道関係の書棚は懐古物によって占められようとしている。取り上げられている年代としては高度成長期あたりが中心と言ったところだろうか。
 貴重な経験をもとに書かれているため、「いまと比べて昔はよかった」といった通り一遍の結論となっていない点が好ましい。実際に体験していたら、いや当時を知らなくても少々調べれば、すべてがバラ色に輝く時代だったとはお世辞にも言えないからだ。
 ところが、出版する側にとっては懐古物は金の卵なので、あまり批判的な口調で語ってほしくないと考えている。筆者にはそれが気にくわない。この手の本を読むと、意味の通らない文章に出くわすことがある。恐らく、執筆者の意向をねじ曲げて編集者が訂正してしまったのだろう。「過去はあくまでも美しい」ものとして書かなければならないのだろう。
 今回取り上げたいのは『JNR EXPRESS』(結解学、ネコ・パブリッシング、2006年7月)である。「昭和50年代を駆け抜けた国鉄特急・急行列車たち」という副題のとおり、昭和50年代の懐古物だ。
 本書は、1975(昭和50)年と翌1976(昭和51)年に撮影された国鉄の優等列車の写真を中心とし、当時の状況を的確に記した文章をあしらった構成となっている。日本鉄道写真作家協会会長を務める著者だけに一枚一枚の写真は素晴らしい。
 また、本書で取り上げられた特急列車と急行列車がどのように連結されていたのかも描かれているから、見ているだけても楽しくなる。記述されているように鉄道模型で再現したいという向きには最適だろう。
 例によって編集方針はあまたある懐古物と大同小異だ。編集者が作成したと思われる小見出しやキャプション類には妙な文面が多い。しかし、本書の写真や文章からはそうした編集方針とは明らかに異なった主張を感じ取ることができる。
 このころの国鉄の在来線といえば、線路は混み合い、車両は慢性的に不足気味だったにもかかわらず、多くの利用客が押し寄せていた。鉄道の黄金時代と言ってしまえばそれまでだが、当事者にとって現実とはそのような甘いものではない。そうした事実を現代に伝えようとする著者の強い意志がどのページからもうかがい知ることができる。
 本書を最も象徴しているのは表紙の写真だ。ここにはいまでも北陸線の特急「雷鳥」として活躍中の電車を用いた特急「かもめ」の写真が使われている。しかし、主役となる車両に刻まれた傷や汚れは廃車寸前の姿と言ってもよいほどのくたびれようだ。いまと比べると、当時は車両の整備や清掃が行き届いていなかった。いや、人手不足、労使関係の悪化、膨大な額の赤字などによってできなかったのだ。そうした背景がうまく表現されていると思う。
 趣味的な要素が強いため、どなたにでもお勧めできる内容ではない。とはいえ、鉄道愛好家だけでなく、昭和50年代前半の特急列車や急行列車の姿を学びたいという方々にも最適だ。

2006年7月15日

「企画アリ!」を更新しました
「企画アリ!」に「メートル法はどのようにして導入されたのか」を追加しました。

2006年7月15日

「企画アリ!」を更新しました
「企画アリ!」に「メートル法はどのようにして導入されたのか」を追加しました。
  • 2006.07.15 Saturday
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メートル法はどのようにして導入されたのか

 言うまでもなく、日本の鉄道はメートル法を採用している。近年は国際単位系(SI、System International d'Unitesの略)の導入も進み、いままで親しまれた馬力(PS)からkWへといった切り替えも進行中だ。
 明治5年5月7日(旧暦、新暦の1872年6月12日)に品川-横浜(現在の桜木町)間が開業して以来、日本の鉄道は2006(平成18)年の今年で134年の歴史を積み重ねてきた。そのうち、JRの前身である国有鉄道がメートル法を用いるようになったのはいまから76年前の1930(昭和5)年4月1日から。1872年から1930年までの58年間はヤードポンド法を使用していたのである。
 列車の運転に常用される本線には、1kmごとに起点からの距離を示す距離標を設けなくてはならない。俗にいうキロポストだ。しかし、1930年3月31日までは距離標には1マイル(=1.609344 km)ごとの距離を記したマイルポストが建てられていたのである。
 問題はここからだ。ヤードポンド法からメートル法への転換は何年にもわたる周到な準備の末、1930年3月31日から4月1日にかけて一斉に実施されたに違いない。全国に無数に存在するマイルポストを抜き、新たにキロポストを設置するなど、想像するだけでも膨大な手間と費用をかけたはずだ。にもかかわらず、当時の国有鉄道を運行していた鉄道省(現在の国土交通省)は何の記録も残さなかった。正確に言うと記録を作成したのかもしれないが、散逸したために切り替え当日の様子をうかがい知ることができないのだ。
 メートル法への切り替えを含め、日本の鉄道は過去に3回の大転換を行ってきた。残る2回とは1925(大正14)年7月15日と16日の2日間で実施したねじ式連結器から自動連結器への一斉交換、そして1987(昭和62)年4月1日の国鉄の分割民営化である。前者の様子は『鉄道車輛ノ連結器ヲ自動連結器ニ取替ニ関スル記録 大正十四年七月実施』(鉄道省、1928年)から知ることができるし、後者に関してはいまさら言うこともないだろう。
 日本の鉄道の「三大切替史」のうち、最も知名度が低く、なおかつ最も謎に包まれているメートル法への大転換をルポしようというのが今回の企画である。といっても調査は難航するだろう。当時を知る関係者に話を聞こうとしても76年も前のことなので存命者が極めて少ないと予想されるからだ。
 しかし、困難だからこそやりがいのあるテーマだと考える。もしも、これからルポライターとして身を立てていきたいとお考えの方がいらしたら、ぜひともこのテーマをご検討いただきたい。仮に筆者が鉄道雑誌の編集長だったら、いや一般誌の編集長であっても、緻密な調査と正確な記述がなされた原稿を目の当たりにすれば次号からの連載開始を即断するだろう。
 ここでお断りがある。今回のテーマは石野哲氏が『停車場変遷大事典 国鉄・JR編 I』(JTB、1998年10月、P63-P64)で示された疑問点をもとに作成させていただいた。石野氏の記述がなければ、メートル法への大転換についての疑問など筆者は永遠に抱くことはなかっただろう。この場を借りて感謝したい。


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