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鉄道ブームとは何か

趣味として理解されている鉄道

 昨今は鉄道ブームなのだという。確かに鉄道を取り上げたテレビ番組や書物は花盛り。恥ずかしながら、筆者も鉄道ブームについてテレビや雑誌上でコメントさせていただいた。
 しかし、本当に鉄道は理解されているのだろうか。筆者はそうは思わない。鉄道が社会に利益をもたらす存在として正当な評価を受けた結果、鉄道ブームとなったのではなく、単に鉄道のもつ情緒性だとか、もっと厳しく言うならば呪物的な面ばかりが人々の興味を引いているに過ぎないと感じられる。
 先日、ある編集者から鉄道ブームについて尋ねられたが、筆者は即座にこう答えた。鉄道ブームなのではなく、鉄道趣味ブームなのだと。1970年代にボウリングが流行したり、バブルの時代にスキーブームとなったように、2007(平成19)年のいまは鉄道趣味が注目を浴びているのだ。
 もちろん、筆者は人の楽しみにけちをつけるつもりはない。実際に鉄道旅行は楽しいし、鉄道模型の奥は深い。広田尚敬氏の活躍ぶりを見るまでもなく、鉄道写真はそれ自体が独立した芸術の域まで達している。鉄道を通じて安楽な日々が過ごせるのなら、こんなに素晴らしいことはない。

鉄道を伝えていない鉄道関連メディアという皮肉

 筆者がいらだっているのは、鉄道を楽しんでいる人たちではなく、鉄道を伝える立場にある人たちだ。毎月、書店には鉄道について記された雑誌が多数並ぶが、鉄道への理解を深めたり、鉄道について客観的な評価を下す際に参考となる内容ではない。
 うそだというのなら、鉄道にはなくてはならない「出発信号機」(「停車場から進出する列車に対する信号機。」JISE3013の番号2011)という言葉が使われている頻度を調べてみればすぐにわかる。恐らく、一度か二度登場すればよいほうだ。
 鉄道ブームについての考察は今後も続けていきたいが、今回のまとめとして、2006(平成18)年8月8日に記した拙稿を紹介したい。旧形国電、つまり旧形の日本国有鉄道製あるいは国有鉄道製の電車という意味をもつ鉄道関連用語がどのように理解されているのかを少々皮肉を交えて記したものだ。
 実はこの拙稿はある出版社から書籍として発行するために執筆したものであり、この文章をもってすべてを書き上げている。にもかかわらず、1年1カ月を過ぎたいまも出版されなかったので、こちらから引き上げることにした。とはいえ、現在の鉄道趣味ブームについての一考察を日の目を見ないままにしておくのも惜しいので、ここに紹介させていただく。

旧形国電

 1980年代初頭、鉄道愛好家たちの興味の的は旧形国電に向けられた。ちょうどこのころ、日本国有鉄道の電車、略して国電のうち、旧形のものが各地で引退することとなり、にわかに注目を集めたからだ。
 旧形国電と見なされたのは日本国有鉄道に在籍していた電車のうち、1957(昭和32)年に登場したモハ90形(後の101系)電車よりも前に設計された電車である。1957年にはモハ90形のほか、70系電車、73系電車、80系電車もつくられた。だが、これらはすべて旧形国電である。日本国有鉄道の内部では旧性能電車あるいは旧標準設計車などとも呼んでいたそうだが、言いやすいためかいつしか旧形国電、さらには略して旧国(きゅうこく)と口にされるようになった。
 モハ90形以降の電車と旧形国電との相違点は明白だ。まず、主電動機を台車枠に取り付ける方法が異なる。旧形国電はすべてつり掛式支持装置を採用しているのに対し、モハ90形以降は一貫してカルダン軸駆動装置を用いているのだ。また、常用される空気ブレーキ装置は前者が一部を除いて自動空気ブレーキ装置、後者の大多数はそうではない。モハ90形以降、長い間電磁直通空気ブレーキ装置が用いられ、現在は電気指令ブレーキ装置が主流を占めている。そのほかにも違いは多々あるのだが解説は省こう。鉄道趣味6誌でたびたび取り上げられているし、関連する書籍も数多く刊行されているからだ。
 旧形国電に含まれる電車には日本国有鉄道が製造したものはもちろん、国有鉄道時代のものも混じっていた。1980年代のブームでもこちらを重点的に追いかけている鉄道愛好家の姿が多かったように記憶している。しかも、長生きしたのもなぜか国有鉄道時代の電車たちで、JR化された1990年代になってもJR東日本鶴見線ではクモハ12形、JR西日本小野田線ではクモハ42形の活躍を見ることができた。
 国有鉄道に在籍した電車のなかで最も古い電車は何だろうか。それは、1904(明治37)年に甲武鉄道から登場した1から28という名の電車だ。これら28両の電車は2軸車で現在のJR東日本中央線の御茶ノ水-中野間で活躍。1906(明治39)年10月1日に甲武鉄道が国有化されると同時に現在のJRのはるか前身である逓信省鉄道作業局に編入された。
 1〜28、1911(明治44)年1月以降はデ950形とデ960形は正真正銘国有鉄道の電車、つまり国電の元祖だ。1969(昭和44)年から1973(昭和48)年にかけて刊行された『日本国有鉄道百年史』にもそう記されている。
 ところが、鉄道趣味の世界でいう旧形国電にはなぜかこれら28両は含まれていない。それどころか、大正時代までにつくられた電車の大多数も省かれている。鉄道愛好家たちが呼ぶ旧形国電とは1926(大正15)年に登場したデハ73200形(後のモハ10形、クモハ11形)以降なのだ。
 鉄道愛好家たちの考えのもととなっているのは、旧形国電についてまとめられた鉄道趣味6誌の記事、あるいは他の出版社から出された書籍である。該当する記事や書籍の筆者の方々と話をする機会があったので、この件に関して筆者の疑問を投げかけてみた。すると、デハ73200形は車体を初めて金属でつくった電車で、それよりも前の電車は木製だったからだという。しかし、木造車だとなぜ旧形国電と見なされないのか、筆者には理解できない。鋼製車よりも木製の電車のほうが「旧形」のように思えるのだがいかがだろうか。
 そうした折、鉄道趣味界の重鎮と呼ばれている方から参考となる見解をいただいた。旧形国電とは、モハ90形が登場した1957年の時点で日本国有鉄道に在籍していた電車のうち、モハ90形以外の電車を指すのではないかというものである。
 これなら合点がいく。デハ73200形の末裔たちのなかには事故救援車のクモエ21形に改造され、何とJR化直前の1986(昭和61)年まで生き長らえた仲間もいる。反面、デハ73200形よりも前に登場した電車たちは1957年の時点ではすでに廃車となったかあるいは民鉄に譲渡されていた。また、大正時代に登場した比較的新しい電車も木製のために傷みが激しいことから廃車となり、一部は車体を取り換え、デハ73200形以降のグループに編入されてもいる。
 とはいうものの、いまは1957年ではなく21世紀の世の中だ。旧形国電だけでなく、一般に新性能電車と呼ばれたモハ90形の姿もすでにJR線上にはない。旧形とそうでないものとの境界が決まっているにもかかわらず、旧形がどこから始まっているのかを定義しないと後世の人が理解不能に陥る。
 筆者は旧形電車とは甲武鉄道の電車からとするのが最適だと考えているが、デハ73200形からと言うのならそれでも構わない。その際には甲武鉄道の1〜28から始まり、デハ73200形の直前に登場した電車を示す用語も考案すべきだろう。

旧形国電
1.1957年に登場したモハ90形よりも前に設計された日本国有鉄道または国有鉄道の電車。
2.一般に国有鉄道初の電車である元甲武鉄道の電車や大正時代に誕生した木製の電車は含まれていない。大正時代末期に登場した鋼製の電車、デハ73200形を指すことが多い。これは、モハ90形が登場した1957年の時点で日本国有鉄道に在籍していたからだと考えられる。
3.21世紀のいまともなると、1957年当時のことを知る人は少ない。そこで、モハ90形登場を境に、それより前に設計された日本国有鉄道または国有鉄道の電車をすべて旧形電車と呼ぶとよい。

夏と鉄道

外が暑ければレールも伸びる

 今年(2007年)の夏はとても暑い。口に出していうのもはばかれるほどだ。異常気象もここまで来ると寒気すら感じてしまう。
 筆者のもとにも今年の夏を象徴するような仕事が舞い込んだ。8月15日(水)の14時10分ごろ、東武鉄道東上線(正式名称は東上本線)武蔵嵐山(らんざん)-小川町(おがわまち)間(埼玉県比企郡小川町)のレールが約10cmも伸び、その結果、線路が外側に約5cmもずれる事件が発生した。この事件について、テレビのニュース番組でコメントせよというものだ。番組名はフジテレビ系列の「めざましテレビ」でオンエアは8月17日(金)午前6時15分ごろからおよそ3分程度であった。
 ありがたいことに、写真家の広田尚敬氏が主宰される2007年8月17日付けの「広田尚敬の鉄道コラム」(http://tetsudoshashin.com/colum/index.html)で事前に紹介していただいている。このため、早朝の放映時間帯ではあったものの、ご覧になられた方もいらっしゃるかもしれない。
 通常の当欄とは異なり、今回はあまりくどくど記すのはやめておこう。ただでさえ暑いうえに記事まで暑苦しいのでは不快極まりないだろうからだ。筆者のコメントをまとめさせていただこう。レールとは気温によって伸縮するものだが、今回は厳しい暑さによってレールの温度が急激に上昇し、結果として異常に伸びてしまった。対策としてレールの温度管理が重要で、もしも温度か上昇してしまえば冷却するしか方法はないと付け加えている。

レールの伸びすぎを防ぐため、温度を厳密に管理

 東上線のような事態にならないよう、鉄道事業者と軌道経営者はレールの温度を管理し、規定以上となったら徐行や運転中止といった措置を取るケースが多い。筆者の手元には『東海道新幹線の保線』(田中宏昌、磯浦克敏編、日本鉄道施設協会、1998年12月)という書物があり、コメントを収録する際に東海道新幹線の運転規則も紹介したのだが、放送ではカットされてしまった。現在もそのままかどうかは未確認だが、481〜483ページから引用させていただこう。
 東海道新幹線の場合、規制が必要なレールの温度は、道床横抵抗力(「バラスト道床中のまくらぎが水平移動するときに生じる抵抗力。軌道と直角方向のものを横抵抗力,軌道方向のものを縦抵抗力と呼ぶ。」JISE1001の番号601)に応じて定められている。道床横抵抗力が700kgf/まくらぎ1本(6.865kN/本)以上900kgf/本(8.825.6kN/本)未満の区間では、48℃以上で温度観測、53℃以上で特別巡回、58℃以上で70km/hに徐行、60℃以上で運転中止、900kgf/本以上の区間では50℃以上で温度観測、60℃以上で70km/hに徐行、64℃以上で運転中止だ。
 無道床の橋りょう区間では異なる運転規則が設けられた。道床横抵抗力が900kgf/本以上1100kgf/本(10.787kN)未満の区間では48℃以上で温度観測、53℃以上で特別巡回、58℃以上で70km/hに徐行、60℃以上で運転中止、1100kgf/本以上の区間では50℃以上で温度観測、60℃以上で70km/hに徐行、64℃以上で運転中止である。
 東海道新幹線に多い鋼鉄製のトラス橋は見てくれはよいものの、レール温度に関する運転規則を見る限り、道床横抵抗力を高めてもバラスト道床区間よりも温度管理をシビアに実施せざるを得ない。その意味では無機質ではあってもコンクリート橋が優れているといえる。

暑い車内は長いダクトのせい

 さて、当ホームページでも何度か紹介している東良美季さんの「毎日jogjob日誌」(http://jogjob.exblog.jp/)の8月16日(木)付けのブログを拝見すると、当日の13時ごろ新大阪駅を発車する「のぞみ」のグリーン車に乗り、東京駅まで戻られたとあった。車内には「『途中、猛暑のため車内冷房の効きが悪く申し訳ありません』というアナウンスが何度も流れ」たという。
 観測史上1位の40.9度を記録した岐阜県多治見市の近くを走行していたのだから、確かに冷房が効かなくなったのかもしれない。だが、筆者はこの話を目にしてどんな車両が使われていたのかすぐにわかった。300系である。この系列は床下に1両当たり5万kcal/h(58.15kW)の能力をもつ空気調和装置が搭載されているのだが、総じて冷房の効きが悪い。車体の側面に設けられたダクトを通じて冷風が床下から天井まで運ばれる間に直射日光によって暖められてしまうからだ。
 特に初期バージョンであるJR東海所有のJ編成J1〜J15編成(J1〜J5編成は1次車、J6〜J15編成は2次車)やJR西日本所有のF編成F1〜F5編成(1次車)の車内は暑くなりがちだ。登場以来、空気調和装置の制御装置と圧縮機を駆動するインバータとの間の伝送不良に始まり、圧縮機自体の不良やコンデンサが磁気を帯びるなどして冷房能力が落ち、そのたびに対策を施したのだが、根本的には車体の側面に張られている側板(がわいた)やダクトを取り換えなければ直らないらしい。このため、一部の300系の編成は多客期を除いて夏季には営業に就いていないのだそうだ。とはいえ、書き入れ時には車両をフルに活用して旅客を輸送しなければならないから、運が悪いとこのような編成に乗らざるを得なくなる。筆者は2004(平成16)年10月1日に名古屋から東京まで確かJ11編成に乗ったのだが、秋だというのに車内はうだるような暑さだった。
 300系の改良版である700系は、床下にある空気調和装置の能力を5万3000kcal/h(61.639kW)へと高めている。そのうえ、ダクトを短縮して冷風を天井からではなく、荷棚の下から出るように改めた。JR東海によれば、外気温が40℃のなかを走行しても快適な車内空間となるように700系を設計したのだそうだ。

 もうこれ以上記すのはよそう。あまりくどくは記さないと冒頭で申し上げたにもかかわらず、非常に暑苦しい文章となってしまった。一点ご理解いただきたいのは、とかく鉄道というと冬季の対策ばかりが目立つのだが、夏への備えも実施されているという点だ。今後、夏の気温はさらに上昇するといわれる。いまの施設や車両のままでは対処できない時代が到来するのかもしれない。また、寒気がしてきた。

「西日本旅客鉄道株式会社福知山線塚口駅〜尼崎駅間列車脱線事故 鉄道事故調査報告書」を海難審判庁の裁決文を通して見る

納得のいかない最終報告書の記し方

 去る2007(平成19)年7月1日に「西日本旅客鉄道株式会社福知山線塚口駅〜尼崎駅間列車脱線事故 鉄道事故調査報告書」(以下最終報告書)についての考察を発表すると予告したものの、その作業はなかなか進まなった。言い訳をするつもりではないが、ここに記されていることが理解できなかったのではない。記し方に納得がいかなかったのだ。
 福知山線脱線事故の遺族の方々などで構成される「4・25ネットワーク」は最終報告書が発表となった6月28日(木)、そして航空・鉄道事故調査委員会(以下事故調)が7月7日(土)に開いた遺族や負傷者の皆さんに向けての説明会の後、それぞれ記者会見を行い、「納得できない」と表明している。
 同ネットワークが特に「納得できない」と言及していたのはATS(自動列車装置)についてだ。筆者は事故直後からテレビ等のメディアにおいて、事故発生地点の周辺にはATSに曲線の手前で列車の速度がオーバーしているかどうかを照査する機能がなく、危険な速度で曲線に進入しようとしていた快速電第5418M列車を止められなかったことも事故の要因だと主張してきた。事故直後から報道されていたように、ATS-P形が導入され、事故の起きた曲線の手前で速度照査機能が作動して事故調のいう最大ブレーキ(JISE4001の番号73008では全ブレーキ=最大制動力が得られる常用ブレーキ)が作動すれば事なきを得たのである。にもかかわらず、国土交通省は遺族や負傷者の皆さんには「(筆者注、ATSの設置について)対策をとらなかったことと、原因は必ずしも一致しない」(2007年7月8日付け日本経済新聞朝刊39面)と語ったという。少々理解できない答えだ。というのも、事故調自身、JR西日本がATS-P形の設置の遅れを批判しているからである。最終報告書の135ページの終わりから136ページの冒頭を読んでみよう。
「これに関して、上述の者の後任として平成15年6月に本社安全対策室の福知山線拠点P整備担当となった者は、次のように口述している。
 自分が着任する直前に発生した事故への対応等のため、福知山線拠点P整備については、平成15年6月下旬から着手することとなり、そのころには9月の経営会議にかけようと、総合企画本部の担当者等と打ち合わせていた。
 平成15年度投資計画では平成16年度内に終えることになっていることは知っていたが、9月の経営会議にかけようとした時点で、拠点Pの停止信号冒進防止機能については平成16年度内の使用開始であるが、分岐速照機能、曲線速照機能等については平成17年度に若干入り込むくらいのイメージであった。平成15年度の中長期計画の平成15年度、平成16年度という計画から少しずれるという認識はあったが、大きな問題だとは認識していなかった。」
 本社安全対策室の福知山線拠点P整備担当者がなぜ「大きな問題だとは認識していなかった」と弁解したのか。それは事故調の担当者が問題視し、追及したからだ。筆者は事故調の最終報告書は鉄道事業を管轄する国土交通省の見解だと考えていた。もしも新聞の記事にあるような回答がなされるのならばこの考えを改めなくてはならない。
 「4・25ネットワーク」は最終報告書について「責任追及が不十分」だとも記者会見で述べている。これについても筆者は同感だ。先ほどの本社安全対策室の福知山線拠点P整備担当者の発言を借りて遠回しに責任を負わせるのではなく、事故調が一人称で記して「責任追及の責任」を負うべきだと考える。もちろん、航空・鉄道事故調査委員会設置法第一条にもあるように事故調とは事故の原因究明と再発防止を目的として設置されたものであるから、責任追及をすべきではないという考えはやむを得ないのかもしれない。

厳しい追及が行われている海難審判庁の裁決書

 ここで船舶の事故を見てみよう。海難審判法第一条で「この法律は、海難審判庁の審判によつて海難の原因を明らかにし、以てその発生の防止に寄与することを目的とする。」と定められた海難審判庁は同様に「責任追及が不十分」なのだろうか。一例としてご覧いただきたいのは高等海難審判庁が1959(昭和34)年2月9日に言い渡した汽船洞爺丸遭難事件の裁決書の一部だ。ここでは国鉄に対し、船体の構造が危険であり、なおかつ安全についての意識が著しく欠如していたとの厳しい追及が生々しく記されている。
「(前略)さらに連絡船の管理部門は、本航路が特殊な輸送態勢下に、特殊な構造の船舶を使用し、また特殊な乗組交替制をとつていたのであるから、連絡船の運航の実態をは(把)握し、その特殊な事情に応じて安仝運航に必要な措置をとることができるものでなければならなかつたのに、連絡船の安仝運航はすべて船長に委ぬれば足りるとし、管理部門はこれに介入すべきでないとする見解をとつていたため車両とう載区画の浸水に対処する樽造の現状が本航路の運航の実情から適当でないことを認識できず、事故発生の危険が予想される異常な場合における安仝運航について対策の必要なことの認識を欠き、したがつて安仝運航につき必要な配慮及び措置をなし得るような職員の配置及び権限がその機構になく、また異常の場合における職員の非常態勢勤務及び職務権限についての何らの定めもなかつた。このような連絡船の管理機構及び方針は、国が本航路を経営していたころから本件発生にいたるまで長年にわたつて行われていたものであるが本航路の運航の実情を考えると連絡船の運航管理は適当なものではないといわねばならぬ。しかして、本件発生当時、指定海難関係人高見忠雄(青函鉄道管理局長)、森船舶部長及び川上海務課長以下連絡船運航管理の要職にあるものが、台風第十五号の来襲の警報が発せられ、連絡船の運航に危険が予想されて函館及び青森におけるすべての連絡船が定時出航を見合わせている状況を知りながら、部下職員をして非常勤務につかせることもなく、また出勤して自ら指揮することもなく、台風の荒天下に出航せんとする洞爺丸船長に何らの援助協力も行わず仝く無関心の態度をもつて臨み、当直の輸送指令は、出航した本船が台風の荒天下に主機関及び発電機が止まりつつある旨の報告を受けながら、それがすでに重大な事故の発生であることを認識できなかつたため、直ちに上司に報告せず、本船遭難者の上陸の報告によつて初めて事故の重大さを認識して、ようやく遭難者救援の対策を講ずるにいたつたものであつて、このように国鉄本庁及び青函局における連絡船の運航管理が適当でなかつたことは、結局本件遭難のような重大な海難を発生せしめるにいたつた一因をなすものである。」(高等海難審判庁監修、海難審判協会編、『海難審判庁裁決録 昭和三十四年一・二月分』、海難審判協会、1959年、93〜94ページ。カッコ内は筆者)
 改めて説明するまでもないかもしれないが、洞爺丸遭難事件とは1954(昭和29)年9月26日に発生した。台風15号が接近しているにもかかわらず、国鉄の青函連絡船洞爺丸は無理に出港し、およそ4時間もの漂流を続けた後に転覆、沈没。旅客1041人、乗組員73人、その他41人の合わせて1155人が死亡または行方不明となった日本最大の海難事件だ。
 そもそも、事故調は「事故」といい、海難審判庁は「事件」と称している。これは両者に与えられた権限の違いから来ているようだ。事故調は国土交通大臣に対しての建議という形でしか申し立てができないが、海難審判庁は海技免許受有者に対し行政処分を行う権限も与えられている。だが、事故の再発防止という設置目的は両者も変わらない。
 海難審判庁の裁決を読んでしまうと、事故調が記した最終報告書の記し方では「納得できない」し、「責任追及が不十分」でもある。筆者が最も心配しているのは最終報告書に込められた意図が果たしてJR西日本に伝わったのかという点だ。これはJR西日本が悪意をもって誤りを正さないという意味ではない。どこを改善してよいのかがはっきりしないのだ。
 高等審判庁での裁決に先立つ1955(昭和30)年9月22日、函館地方海難審判庁は国鉄(正確には指定海難関係人の十河信二総裁)に対し、「連絡船の船体構造及び運航管理の改善について勧告」(高等海難審判庁監修、海難審判協会編、『海難審判庁裁決録 昭和三十年九・十月分』、海難審判協会、1955年、1351ページ)を行った。改善の内容は先に挙げた高等海難審判庁の裁決文とほぼ同じだ。一人称ではっきりと「責任を追及」されたからこそ、国鉄は船体の構造を根本的に変え、本庁営業局船舶課を船舶部を経て船舶局へと昇格させ、青函鉄道管理局は連絡船部門の権限を鉄道と対等に高めた青函船舶鉄道管理局へと変えたのである。
 不思議なことに識者や鉄道関連の執筆者のなかには、JR西日本の体制面や体質面での問題を事故調が福知山線脱線事故の一因としていることにすら否定的な意見を抱いている人が存在する。筆者にはこのような意見がいかなる理由から生じたのかはわからない。日々海難審判庁の裁決書に目を通している船舶関係者の皆さんにとっても奇異に感じられるはずだ。そうした雑音をなくすためにも最終報告書の文面は毅然とした記し方とすべきであった。

N700系と初期故障

 おかげさまで、2007(平成19)年6月3日に記した「N700系から見るJR東海とJR西日本との関係」は多くの方にご覧いただき、感謝に堪えない。また、「Rail Magazine」(ネコ・パブリッシング発行)2007年8月号の拙稿「7月1日デビューのN700系量産車で東京から博多へ」も編集部によればご好評をいただいているらしい。
 2007年7月1日にデビューしたN700系は、東海道、山陽新幹線の車両としては1999(平成11)年3月13日に営業を開始した700系以来の新車だ。それだけに注目度は高く、7月1日以降もその一挙一動はごく細かな事柄でも報道されるに違いない。当然のことながらよいことばかりではなく、この車両が引き起こすトラブルも大きく取り上げられるはずだ。
 N700系の初期故障として最も可能性が高いのは、何と言っても台車に装着された車体傾斜装置だろう。故障を想定して車体傾斜装置の制御装置は2系統あり、どちらも作動しなかった場合は台車に備えられた自動高さ調整装置が働き、完全にとは言えないまでもまくらばねである空気ばねの高さを調整してやり過ごす仕組みが採用されている。しかし、何ごとにも絶対はないから、規模の大小にかかわらず、トラブルは避けられない。
 かつて華々しく登場した新幹線電車の多くも初期故障に見舞われた。東海道、山陽新幹線の車両として記憶に新しいのは300系だ。なかでも深刻なトラブルはボルトの脱落だった。主電動機を台車に取り付ける部分の塗装膜が厚すぎたため、ボルトを十分に締め付けることができず、抜け落ちてしまったのだ。
 ボルトの脱落は頻発したが、当初JR東海は心配はないという旨の発表を行う。また、大小さまざまな初期故障を大きく報じるマスコミに対し、JR東海がいぶかしげに感じているように受け止められるコメントを出し、同時に鉄道関連のメディアも批判的な見方に転じた。
 だが、もう一度このトラブルの本質を考えてほしい。主電動機を台車に装着するためのボルトが脱落するということは最悪の場合、主電動機が落下する事態に陥る。レールの上に落ちた主電動機の上に超高速で走行する車両が乗り上げたら、どのような事態になるのかは容易に想像できるはずだ。推進軸が落下したため、国鉄のDD54形ディーゼル機関車が何度も脱線したことからもおわかりいただけることだろう。
 鉄道に限らず、自動車、航空機、果ては自転車に至るまで、走行中に部品を落とすことは設計者、整備担当者にとっては最大級の恥とされている。実際、300系がボルトの落下を起こしていたころ、JR東海とは関係のない鉄道事業者や鉄道車両メーカーの担当者が呆れていたことを思い出す。
 今後、N700系にどの程度の初期故障が発生するのかは不明だが、起きることは間違いないだろう。読者の皆様にお願いしたいのは、マスコミで取り上げられるたびに「騒ぎすぎ」あるいは「批判しすぎ」と受け取らず、報道されたトラブルが鉄道事故等報告規則第四条一項八号が規定する「車両の走行装置、ブレーキ装置、電気装置、連結装置、運転保安設備等に列車の運転の安全に支障を及ぼす故障、損傷、破壊等が生じた事態」に該当するかどうかを確かめていただきたい。こうした事態は鉄道事業法第十九条の二の規定により、国土交通大臣に届け出なければならないし、言うまでもなく早急に改めていく必要がある。
 本質的なトラブルを解決することで車両は完成に近づく。また、大きく報じられればされるほど、その時期が早まる可能性は高い。だからこそ、初期故障から目を背けてはならないのだ。

ATCに見るJR東海とJR西日本との間の温度差

過去にもJR東海はJR西日本の車両を追い出す

 前回の「鉄道よもやま話」でJR東海がJR西日本の500系を煙たがっているという話をした。結局のところ、この7月1日(日)からも500系が東海道新幹線で健在なところを見ると、使いにくい車両であるのは確かだが、さりとていますぐ追い出してしまうほど決定的な理由はないようだ。
 ところで、JR東海は過去にもJR西日本の車両を邪魔者扱いしていたことがあり、実際に追放した。0系、それも1978(昭和53)年前半までにつくられた車両だ。単に古いからという理由で追い出したのではない。保安度を向上させるためだったのである。少々、専門的でかつファン的な要素の強い話だが、安全に関する取り組みの一例として紹介したい。
 1963(昭和38)年から1985(昭和60)年までの22年間に3216両が製造された0系は年々改良が施されて登場した。1両目と3216両目とを比べると、見た目はほぼ同じだが、中身、特に機器類は全く異なると言ってもよい。数多くつくられた0系は製造ロットごとに番号が付けられ、最初に登場した1次車を皮切りに最後に登場した38次車まで実に38バージョンが存在する。

問題となったのは25次車以前の0系

 JR東海が問題としたのは25次車までの車両だ。1978年後半に製造された26次車と25次車以前の車両との相違点は先頭車の21形と22形に存在する。26次車からは搭載しているATC(自動列車制御装置)に改良が加えられ、受信したATC信号を照査する機構を完全デジタル化(デジタル式のATCに対応した装置ではない)し、妨害波への耐性を強化し、情報信頼度を高めたのだ。車両に興味をお持ちの方も多いと思われるので、形式名を記すと、25次車以前はTS-1形制御装置、搭載しているATC装置はATC1形という。26次車以降の改良版はそれぞれTS-1A形、ATC1A形と呼ばれる。
 国鉄は東海道新幹線の保安度を高めるため、1964(昭和39)年10月1日の開業と同時に導入されたATCを更新することとした。1974(昭和49)年10月に発足した新幹線総合調査委員会にATC分科会(座長は阪本捷房 さかもととしふさ 東京電機大学学長)を設けて検討に入り、約7年もの準備期間を経て1982(昭和57)年度から工事に入る。それまでのATC-1A形というシステムから東北、上越新幹線で採用されたATC-1D形への切り替えが完了したのはJR化後の1988(昭和63)年3月13日(金)のことだった。
 ATC-1A形とATC-1D形との最大の相違点は、前者が1つの信号波を用いてレールから車両へとATC信号を送っているのに対し、後者は2つの異なる周波数の信号波を用いているという点だ。車両は2つの信号波を受信していなければ信号とは見なされず、どちらか1つが欠ければ無信号となり、車両には停止信号が送られる。情報信頼性が高まると同時にスピードアップによって新たに必要となる信号の追加にも対応したシステムだ。2つの信号波を組み合わせていることから2周波組み合わせ式という。

ATCを更新したにもかかわらず、保安度の低い使い方を余儀なくされる

 JR東海がATC-1D形を導入した際、本来の計画とは異なる使い方をしなければならなかった。それは、緊急停止信号に2つの信号波からなる02E信号ではなく、信号波を1つしか用いず、結果的に無信号となる02信号を用いざるを得なかったからだ。ここまで辛抱強くお読みいただいた方なら察しが付くに違いない。そう、25次車以前の0系に搭載されているTS-1形制御装置では02E信号を受信できないケースが発覚したからである。
 緊急停止信号とは、前を行く列車の直後から1つ前の軌道回路(「列車又は車両を検知するために,レールを用いる電気回路。」JISE3013の番号7001)の境界までの間に進入した際に現示(「信号の指示内容を表すこと。」JISE2003)される信号だ。ATC-1A形での緊急停止信号は何も信号を送らないことによって現示していた。大多数のケースではこれでも大丈夫なのだが、ごくまれにレールに妨害波が混入し、他の信号を現示するケースがあった。一例だが、緊急停止信号を現示しているのにもかかわらず、70km/hで走行してよいという70km/h信号を現示するといったトラブルが実際に発生したことがある。
 JR東海は自社が所有している0系のうち、25次車以前の車両を1997(平成9)年中に一掃してしまう。ところが、JR西日本は車両の更新が遅れ、25次車以前の車両が相変わらず残っていた。そこで、JR東海は02E信号に対応している100系のうち、G編成7編成112両をJR西日本に譲渡する。
「JR西日本さんが25次車以前の車両を所有し、自社の線路である山陽新幹線内で運転するのは差し支えません。しかし、02E信号を導入したいので東海道新幹線内を運転してもらっては困ります。ついては100系を差し上げますから、これらを使って乗り入れてください」。JR東海はJR西日本に対し、このような趣旨の要請を行ったはずだ。

念願の02E信号を導入したものの、例外も発生

 東海道新幹線に乗り入れる車両から25次車以前の0系をすべて追い出したため、東京-高槻(JR東海の表現。正確には大阪府摂津市安威川南町にある大阪第一・第二・第三車両所との分岐点)間で02E信号の導入が完了した。1998(平成10)年3月(日付は不詳)のことだ。
 不思議なことに1998年3月になっても東海道新幹線のうち、高槻-新大阪間には02E信号が採り入れられなかった。「山陽新幹線だけ」で運転される25次車以前の0系も大阪で夜を明かす際には大阪第一車両所まで回送しなくてはならない。このため、高槻-新大阪間と大阪第一車両所内では02E信号を送ることができなかったのだ。
 JR東海は不安で仕方がなかっただろう。同じ路線でありながら、緊急停止信号という重要な信号の現示方法が異なっているのは素人目に見ても問題が多い。
 どうしたことか、JR西日本は21世紀に入っても25次車以前の0系を使い続けた。JR東海はやきもきしていたに違いないが、絶好のチャンスが訪れる。東海道新幹線のATC-1D形をデジタル式の新ATC、ATC-NS形へと置き換えることとなり、2006(平成18)年3月18日(土)の切り替えと同時に高槻-新大阪間にも02E信号を導入したのだ。JR西日本もこれを了承し、25次車以前の0系は2005(平成17)年度中にすべて姿を消す。晴れて、高槻-新大阪間にも02E信号が現示されることとなったのである。
 余談だが、JR西日本はATC-NS形の導入に関してもJR東海と完全に歩調を合わせてはいない。同社は自社が所有する300系、500系、700系をATC-NS形に乗り入れできるように改めたが、高槻-新大阪間と大阪第一車両所に乗り入れる0系と100系に対しては何も施していない。耐用期限が迫っている車両に新たに投資するのは得策ではないと考えたのだろう。
 これでどうやって高槻-新大阪間や大阪第一車両所内を運転しているのか疑問に思われるに違いない。実はこれらの区間ではATC-NS形だけではなく、従来のATC-1D形の信号もレールに送っているのだ。
 02E信号はしっかり現示されるのだから、デジタル式だろうがアナログ式だろうが、確かに保安度に差はない。また、同じ路線内で両方式のATCを混在させて使用する事例はJR東日本の東北新幹線でも見られ、特に問題はないだろう。とはいえ、東海道新幹線のATCに関してJR西日本が行ってきたことは、安全についての同社の考え方を象徴するようだ。率直に言ってあまり褒められたものではない。


参考文献
『新幹線の30年』、東海旅客鉄道株式会社新幹線鉄道事業本部、1995年2月
東海旅客鉄道株式会社新幹線鉄道事業本部、『東海道新幹線のあゆみ  「のぞみ」成長の軌跡』、東海旅客鉄道新幹線鉄道事業本部、2005年3月
新幹線運転研究会編、『新幹線』、日本鉄道運転協会、1984年10月
『新幹線信号設備』、日本鉄道電気技術協会、2002年4月
『ATS・ATC 改訂版』、日本鉄道電気技術協会、2001年7月

エアセクションでの架線溶解について(速報)

 2007(平成)年6月22日(金)午前7時55分ごろ、JR東日本東北線さいたま新都心-大宮間で架線の切断が発生。宇都宮線、高崎線、湘南新宿ライン、京浜東北線、埼京・川越線の列車が長時間にわたって立ち往生してしまった。長い間列車に閉じ込められて体調を崩された方々や、通勤、通学などの足を奪われて迷惑された方々にお見舞いを申し上げます。
 架線が切れた原因はエアセクションで列車が停車し、パンタグラフによって短絡されたために火花が散り、架線が溶解してしまったからだ。JISE2001の番号5213によれば、エアセクションとは「電車線(筆者注、架線)の隣接区間の端末をしかるべき長さでオーバーラップさせて形成された区分点。パンタグラフは両電車線下を短絡走行でき,絶縁は二つは電車線設備間の適切な間げき(隙)のエアギャップによって確保される。」と定義される。
 JR東日本によれば、エアセクションの短絡による架線の溶解は過去10年間で12件発生しているという。同社のように高密度で列車が運転される路線では運転士に注意を求めても根絶はできないと思われる。かといってエアセクションに取って代わる方式も見当たらない。
 エアセクションをニュートラルセクション(「電圧及び位相の異なる隣接区間が集電装置の通過によって互いに短絡されないようにした両端にき電区分点を備えた電車線の一区間。」JISE2001の番号5214)に置き換えてはどうかとも考えられる。だが、編成の両端のパンタグラフで隣接する2つの電車線を短絡させてしまえばそれはそれで問題が生じてしまう。1両当たり2基のパンタグラフを上げて走行する直流電気機関車が車両基地内に設置されたニュートラルセクションを通過する際、片方のパンタグラフを下げ、1基だけ用いているという事例からも明らかだ。
 走行中にパンタグラフを下ろすことは無理なので、この区間では最大で15両編成分、つまり300mものニュートラルセクションが必要となる。となると、無電圧のニュートラルセクション内で立ち往生する列車が続出し、今回のケース以上の混乱を引き起こしてしまうかもしれない。そう考えているからこそJR東日本、いや他の鉄道事業者もエアセクションを撤去できないのだろう。
 今回は速報としてお伝えしたが、エアセクションの問題点については今後も調査を続けていきたい。

N700系から見るJR東海とJR西日本との関係

大々的なPR活動が展開されているN700系

 JR東海とJR西日本は2007(平成19)年5月23日(水)、N700系のマスコミ向け試乗会を開催した。筆者はネコ・パブリッシング「Rail Magazine」編集部から派遣されて東京-博多間を乗車し、記事は同誌2007年6月21日発売予定の8月号に掲載の予定だ。この試乗会の模様は名取紀之「Rail Magazine」編集長のブログ、「編集長敬白」の2007年5月23日付けのページ(http://www.hobidas.com/blog/rail/natori/archives/2007/05/n700_2.html)でも紹介されているので、そちらもご参照いただきたい。
 来る7月1日(日)から営業運転を開始するN700系に対し、JR東海は近年になく大がかりなPR活動を展開している。筆者は東京都内に在住しているが、ここのところN700系のテレビCMに1日1回は必ず出合う。エアロダブルウイングと称される先頭形状と「新!」というロゴとの組み合わせは広く認識されたに違いない。
 試乗会前に筆者がJR東海の関係者に聞いたところでは、金額は言えないものの、相当な予算を割いているのだという。「予算に余裕ができまして……」と教えてくださった方もいた。

東海道新幹線と山陽新幹線との相互乗り入れには利害の対立は避けられない

 冒頭で紹介したように、試乗会の模様は「Rail Magazine」8月号の記事をご期待いただければ幸いである。ここではN700系から見たJR東海とJR西日本との関係について述べてみたい。
 結論から先に言ってしまおう。JR東海とJR西日本の両社は東海道新幹線と山陽新幹線との相互乗り入れをめぐって利害の対立が生じている。JRの当事者はもちろん、業界関係者、熱心なファンの方々でもうすうすは感じ取れるはずだろう。
 誤解なきようにお願いしたいのは、両社とも生理的にお互いのことを嫌っているのではない。東海道、山陽という仕様も異なれば、輸送実績にも大きな差の付いている新幹線を2社が分担し、あたかも1本の路線であるかのように運転するのだから衝突が生じて当然なのである。
 JR同士で最も「仲が悪い」のはJR東日本とJR東海であることは間違いない。両社の利害が対立しているうえ、筆者の目からはお互いを生理的に受け付けていないようにも受け取れる。どちらの会社の担当者だったかは秘すが、自社の名が載ったある書類に「仲の悪い」他社の名があっただけで怒り出した人がいた。また、両社の境界駅である東海道線熱海駅で実施される乗務員の交代の模様を観察すると、両社の運転士が引き継ぎの際に目すら合わせようとしないことに気づくはずだ。

500系をめぐる対立

 東海と西日本というJR2社の対立はあくまでも鉄道事業者としての正当な主張に基づくものである。だが、JR西日本の500系という新幹線電車についての対立にはやや感情的なもつれも含まれている。
 500系とは300km/hで走行可能な車両で、戦闘機のような先頭形状と断面をもつ。他の新幹線電車には見られないスタイルで人気も上々だ。
 ところが、JR東海は500系を認めたくないらしい。同社の担当者に東海道新幹線には何という名の車両が走っているのかと聞くと、ほぼ間違いなく皆300系と700系だと答える。JR西日本の500系が乗り入れているのを承知のうえで言わないのだ。
 JR東海にとって500系は目の上のたんこぶでしかない。筆者が聞いたところでは理由は主に3つある。定員が1323人のJR東海の300系や700系よりも多い1324人であるうえ、号車ごとの定員にも差があるために車両を差し替えた際にはトラブルの種となる点、16両編成中、モーターの付いていない車両が4両(700系)または6両(300系)連結されているのに対し、500系はすべての車両にモーターが付いていて電力消費量(数値は不明)が多いという点、さらには、1号車と16号車には乗務員室のすぐ隣に旅客用の戸がないという点だ。これらは趣味趣向の問題では済まない。東海道新幹線で鉄道事業を展開していくうえで大きな障害となりうるからだ。
 率直に言って、筆者に500系の不満を述べるくらいならば、JR西日本と交渉してさっさと追い出せばよいのにと思う。実際に何度もそう試みたらしい。だが、なかなか実現できなかった。代わりとなる車両がないとJR西日本が反発したからだろう。

N700系の登場で対立は解消に向かうのか

 今年、ついに500系の代わりとなるN700系が登場する。JR西日本もN700系を投入すると発表したからだ。したがって、ゆくゆくは東海道新幹線から500系は姿を消すこととなり、JR東海が抱いていた長年の悩みは解消されるに違いない。
 人気者の500系についても公平な記述を心がけるべきではあるものの、実際にN700系と乗り比べてみるとやはりN700系のほうが優れている。登場時期が違うので単純に比較はできないが、それを承知のうえで述べさせていただくと、両者は設計思想からして異なっているようだ。スピードアップを主眼とした500系に対し、N700系は快適性を売り物としているという具合にである。
 500系が東海道新幹線で営業を開始したのは1997(平成9)年11月29日のこと。間もなく10年が経過しようとしているいま、ようやく両者の対立は丸く収まろうとしているのだ。

San Francisco Municipal Transportation Agency

 5月14日という日は1991(平成3)年に信楽高原鐵道信楽線小野谷信号場-紫香楽宮跡間で正面衝突事故が発生した日である。この事故で42人の方々が亡くなり、614人の方々が重軽傷を負った。ここで改めてお亡くなりになられた皆様のご冥福をお祈りし、心身に深い傷を負われた皆様にはお見舞いを申し上げます。
 事故から16年を経た5月14日という日は、鉄道は安全になったのか、鉄道は進歩したのかという問いを筆者に対して突きつけられた日でもあった。「そうである」と答えたいところだが、ここのところ、鉄道にまつわる話題には気が滅入るような話題ばかりである。
 当ページをご覧の皆様にとっては一刻も早く忘れてしまいたいニュースかと思うのだが、JR西日本の特急「サンダーバード」の車内で女性が暴行を受けた事件、JR北海道の留萌線の列車に高校生が乗り切れなかったことに対する混乱などだ。実はこれらの件には読者の方々からメールをいただき、筆者の考えを聞きたいとのコメントが寄せられている。通常ならば、一つ一つの事例について事細かに検証すべきだろう。実際に2007(平成19)年5月9日に留萌線秩父別(ちっぷべつ)駅で発生した「騒ぎ」については上尾事件にも見たてて調査を行ったが、発表は時期尚早だと考えている。もう少々お待ちいただきたい。

30年前、アメリカの一都市の公共交通機関とは……


 いま挙げた2つの事件について考えたとき、筆者はいまから30年前の1977(昭和52)年ごろ、小学生の一時期に行っていた電車とバスを乗り継いでの通学を思い浮かべた。当時、アメリカはサンフランシスコに住んでいた筆者はサンフランシスコ市交通局(San Francisco Municipal Transportation Agency。通称、MUNI)を利用して市の中心部にある小学校に通っていたのである。
 電車というのはサンフランシスコ市電のL系統だ。路面電車に詳しい方ならおわかりかもしれないが、当時はPCC(Presidents' Conference Committee)カーという1930〜1950年代製の一見鈍重な電車の天下だった。とはいうものの、PCCカーは世界の電車の歴史に名を残す高性能車両だ。この電車が開発されなければ現在の新幹線もあり得ないと断言できる。日本ではほとんど省みられていないが、いずれ評価すべきときも訪れるはずだろう。
 さて、映画「ダーティーハリー」をご覧になると、クリント・イーストウッド演じるハリー・キャラハン刑事がトンネルの中を走る路面電車に乗って犯人を追いつめるシーンが登場する。このトンネルはサンフランシスコ市にそびえ立つツインピークスという山に掘られたものだ。日本の地下鉄からは想像もできないような暗いトンネルに暗い車内。筆者が乗っていたL系統もここを通過していた。
 当時、そして恐らくいまもだろうが、サンフランシスコという街は治安が悪い。路面電車やバスに乗ると、運転士に近い前方は白人のいる場所、真ん中の戸から後方は有色人種の場所と決まっていた。人種差別ではなく、白人が恐がって後方に行かなかったからだ。運転士のそばは白人、特に老人が固まり、身動きが取れないほどだ。しかし、混雑をかき分けてやや空いている後ろに行くと最後部の座席には鋭い目つきをした有色人種の男性が座っていることが常だった。白人の利用客にとって、後方に行くということは命がけの行為だったのかもしれない。
 それでも混雑を平準化しようと運転士も誘導することはあった。ただし、白人に対しては無理強いはしていない。したがって、筆者のような有色人種は自然に後方へと移動することとなる。
 路面電車でもバスでも前方と後方との設備の差は大きなものだった。前方の腰掛にはモケットが張られていたが、後方のものはプラスチック製。これはナイフなどでモケットを切り取られないようにするための対策だった。それでも、前方のモケットの一部も破られていたし、後方に行くにしたがって落書きも多くなる。窓が外れているような車両すらあった。

トラブルに的確に対処する乗務員、そして協力する大人

 自慢でも何でもないが、筆者が通学する際、親は付き添わなかった。1歳下と5歳下の2人の妹を引き連れ、毎日路面電車とバスに乗っていたのだ。しかし、幸いなことにというか、穴の開いたズボンや靴を履き、有色人種でもある筆者は路面電車やバスの後方に乗っても特に恐い目には遭わなかった。筆者が利用していた1系統というトロリーバスは市内で最も治安の悪いといわれるフィルモア街と交差していたにもかかわらずである。
 映画「ダーティーハリー3」をご覧になった方なら、ハリー・キャラハンが相棒の女性刑事に「ここはフィルモア街といって白人がほとんどいない地区なんだ」と言っていたのを覚えておられるかもしれない。トロリーバスから見たフィルモア街はサンフランシスコのなかでも異様な光景だったことはいまでも強烈に覚えている。
 約1年にわたる利用期間のなかで筆者が遭遇したトラブルは1回だけ。バスのなかで起きたけんかだった。屈強な運転士は慌てもせずにバスを止め、これまた屈強な利用客の協力を受け、けんかをしている当事者2人をバスから蹴落としてしまったのである。
 ここまでで一体何が言いたいのかというと、やはり輸送機関ならば運転士や車掌といった乗務員がリーダーシップを取るべきだということである。車内で起きたトラブルには責任者が毅然とした対応を取らなければならないし、立派な大人ならば周囲も協力すべきだという事例をこのとき学んだ。
 映画やドラマになった「電車男」ではないが、1990年代半ばに東京急行電鉄の車内で筆者は女性に絡む酔客を退治したことがある。暴力が許されないのは承知のうえだが、このとき筆者が思い浮かべたのは小学校6年生のときに見たサンフランシスコ市交通局の職員、そして職員に協力する大人の姿だった。
 当の日本では周りに多くの利用客がいたのに知らん顔。車掌が近くにいてももちろん何もしなかった。その後の鉄道、そして日本がどうなってしまったのかは皆様ご存じのとおりだ。坂口安吾ではないが、墜ちるところまで墜ちてしまったほうがよいのかもしれない。サンフランシスコのように公共交通機関を利用する行為が危険と隣り合わせとなり、居眠りすらできないような状況となったとき、人はようやく目を覚ますはずだ。

福知山線列車脱線事故から2年

 あの日から2年が経過してしまった。言うまでもなく、あの日とはJR西日本の福知山線塚口-尼崎間で宝塚駅発、同志社前駅行き7両編成の上り快速電第5418M列車が脱線し、死亡者107人(乗客106人、運転士1人)、負傷者555人(すべて乗客)を出す大事故が起きた2005(平成17)年4月25日(月)のことだ。
 ここで改めて犠牲となった皆様に哀悼の意を表しますとともに、心身に深い傷を負われた皆様、愛する家族や親族、友人を失われた皆様にお見舞いを申し上げます。

 脱線事故から2年、本欄で記そうと考えていたことは4月24日(火)に放送された朝日ニュースター「ニュースの深層 evolution」で発言させていただいた。内容自体は目新しいものではない。2006(平成18)年12月20日に国土交通省航空・鉄道事故調査委員会(以下事故調)から公表された「事実調査に関する報告書の案(意見聴取会用) 西日本旅客鉄道株式会社 福知山線塚口駅〜尼崎駅間 列車脱線事故(平成17年4月25日 兵庫県尼崎市において発生」(以下報告書案)や、2007(平成19)年2月1日には報告書案をもとに開催された意見聴取会の議事録、さらには国土交通省やJR西日本、他の鉄道関係者などへの取材を通じて得たことをまとめたものであり、これまで当ホームページでも断片的に紹介してきたことだ。
 本来ならば、番組出演時のコメントをまとめてお伝えしようと考えていた。しかし、翌4月25日(火)に開催された追悼慰霊式で遺族代表の下浦邦弘さんの言葉に耳にし、軽々しく記すことができなくなってしまったのだ。
 下浦さんの怒りはJR西日本だけでなく、筆者のような立場の人間にも向けられていた。これは当然だ。脱線事故が起きるまでというもの、筆者は鉄道に関する公正で有益な判断材料を提供しているつもりでいたのだが、実際の記事は鉄道事業者、軌道経営者寄り、つまり提灯持ちあるいは御用ライターと化していたからである。
 脱線事故後、筆者はフジテレビとテレビ朝日の報道番組でコメントを行い、それまでの考えをすべて改めて臨んだ。当初、JR西日本はこの脱線事故を踏切事故だと言っていたが、筆者は即座に否定した。地形図と当日の列車ダイヤからそうではないとすぐに判明したからだ。また、後に同社が置き石の可能性があると示唆したときも、明治時代から現代まで日本で発生した鉄道事故の記録を調べ、置き石が原因にしては線路の破損が少ないとコメントしている。そして、脱線事故の原因はスピードの出しすぎで、原因は回復運転によるもの。もしも、曲線区間の手前でATS-P形による速度照査が行われていれば事故は防ぐことができたとも述べた。
 こうしたコメントの数々を自慢したいのではない。脱線事故前から予見できていたにもかかわらず、発言してこなかった反省からだ。事故を起こした運転士が受けたことで問題となった日勤教育を筆者は10年以上前に吹田駅構内で目撃したこともある。なぜ、これらを結び付けられなかったのか。全くもって恥ずかしい限りだ。
 いずれこの脱線事故についてまとめなくてはならないが、もう少し慎重にすべきではないかとも考える。あまりに多くの生命が失われ、あまりに多くの人たちの幸福が奪われたからだ。いまは運転の安全の確保に関する省令(昭和二十六年七月二日運輸省令第五十五号)の第二条第一号の綱領を紹介させていただき、現在の思いをお伝えしたい。

(一)安全の確保は、輸送の生命である。
(二)規定の遵守は、安全の基礎である。
(三)執務の厳正は、安全の要件である。

TGVの速度記録更新について(速報)

世界最高記録が更新される

 2007(平成19)年4月3日(火)13時14分(現地時間)、フランス国有鉄道の高速鉄道TGVのV150形がパリ-ストラスブール間の新路線で試験走行を実施。191km地点で574.8km/hを記録した。この記録は1990(平成2)年5月18日(金)にTGVがマークした515.3km/hを59.5km/h上回るものである。
 車輪を取り付けた車両がレール上を走行する速度としては世界最高記録を達成したときの模様は動画で視聴することが可能だ。http://www.record2007.comからフランス語または英語を選んで入ると、動画を配信するページがある。筆者がくどくどと説明するよりも、視聴していただければあらましがご理解いただけることだろう。

安定した走行状況と集電状況

 試験走行の模様を観ての感想は、「実に安定して走っている」の一言に尽きる。台車に取り付けた車載カメラからの映像からは、平行リンク式軸箱支持(「軸箱を前後から段違いに,ゴムブシュが付いた2本の平行リンクで台車枠に結合して,輪軸を平行に保ちながら上下方向に動くことができるようにした軸箱を支持する構造。」JISE4001の番号23021より)、V150形の製造メーカー名からアルストム(Alsthom)式と呼ばれる軸箱支持装置を備えた台車の走行状況を観ることができるのだが、全くと言ってよいほど蛇行動(「輪軸の横運動及び車体のヨーイングの連成した正弦波振動。」JISE4001の番号13084より)を起こしていない。時折、垂直方向振動が確認される程度だ。また、車両の走行によってバラストが巻き上げられてもいない。東海道新幹線ではポリモリタル系の乳剤を用いてバラストを固めているが、TGVも同じような工夫を施しているものと思われる。いずれせよ、厚さ350mmで敷き詰められたバラストを用いた軌道の整備状況はほぼ完璧なのだろう。
 車内の様子を見ると半径8000〜10000m程度の曲線を500km/h以上の速度で走行しているにもかかわらず、立っている人がよろめいたり、転ぶようなこともない。TGVやアルストム社の公式サイトをざっと探しても、V150形が振子車両であるとか、車体傾斜装置付きだとは記されていなかった。これは適当な予測値だが、実カント量を300mm(日本の新幹線の最大値は200mm)とし、カント不足量を150mm許容するとして、日本の国鉄、JR各社が用いている許容速度の数式、最高速度=√曲線半径(m)×(実カント量(mm)+カント不足量(mm))/11.8に当てはめると、半径8000mの曲線の場合、552.3km/hまでは「のぞみ」や「はやて」と同じ乗り心地で乗車できる。
 パンタグラフの集電状況も良好なように見えた。映像からは離線を確認することはできず、エアセクション(「電車線の隣接区間の端末をしかるべき長さでオーバーラップさせて形成された区分点。パンタグラフは両電車線下を短絡走行でき,絶縁は二つの電車線設備間の適切な間げき(隙)のエアギャップによって確保される。」JISE2001の番号5213より)の通過状況もスムーズだ。
 架線は恐らく高張力シンプルカテナリだと思われるのだが、これだけの速度で車両が通過しているにもかかわらず、ほとんど振動が発生していない。トロリ線波動伝播速度を向上させるため、トロリ線の張力を35kN程度(日本の新幹線の最大値は約25kN)に高めたようだ。電柱や支持物が恐ろしく頑丈そうに見えるので、ちょう架線を合わせた総張力は70kN程度(同約59kN)はあるのかもしれない。
 いま挙げたこれらの数値は筆者の推測によるものだ。フランス国有鉄道またはアルストム社に直接問い合わせてみたい。
 蛇足だが、フランス国有鉄道は常日ごろ、大口をたたくというか、挑発的な物言いのため、日本ではどことなく敵役を演じている。しかし、今回の走行試験の状況を見ると、周到な準備作業を行ってきたようだし、見た目の派手さに反して地味な研究作業を繰り返してきたようだ。フランス国有鉄道は素直に努力を重ねてきたと言えばよいのにと思うのだが、一体いかなる事情でそうしないのかについては不明だ。とはいえ、だからこそ鉄道の進歩に寄与していることも間違いはない。


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