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4月25日という日

 去る2009(平成21)年4月25日、JR西日本福知山線塚口駅-尼崎駅間で起きた列車脱線事故から4年が経過した。この事故で亡くなられた方々のご冥福をお祈りし、傷つかれた方々、そしてご家族やお知り合いが亡くなられたり、傷つかれた方々に謹んでお見舞いを申し上げます。
 筆者が4年間思い続けてきたことは、「鉄道というものは必要悪の存在であって、なくて済むのならそのほうがよい」というものである。確かに、鉄道によって得られる利便性は非常に大きい。だが、ひとたび列車事故が起きれば、この事故のように痛ましいものとなってしまう。
 殉職者なしに鉄道を敷設することはできないという事実もゆゆしき問題点だ。筆者は開業中の新幹線の工事誌すべてにあたってみたが、どの新幹線も多くの犠牲の上に成り立っている。よく、「鉄道の怪談」なる無責任な記事で山あいの路線のどこそこに殉職者の霊が出るなどと書かれているが、失礼極まりないうえ、笑止千万としか言いようがない。東海道新幹線の建設工事では210人(国鉄職員6人、工事請負業者204人)が犠牲となった。大都市圏の高架橋上でも自動車事故や墜落による死者が多数発生している。1964(昭和39)年9月22日に浜名湖畔に設けられた東海道新幹線建設工事殉職者慰霊碑の慰霊祭に出席した国鉄の石田禮助総裁は、次のようにあいさつしたという。
「新幹線の尊い人柱となられた200余人の人たち、そのご家族の方々にはなんともお気の毒なことだ。これほどの立派な鉄道をつくった技術をもっても、なお多数の犠牲者を出さないでする方法はなかったのだろうか。遺憾千万である。われわれはこの犠牲者によってつくられた新幹線を今後立派に育て上げなくてはならない」(『新幹線の30年』、東海旅客鉄道新幹線鉄道事業本部、1995年2月、62ページ)
 鉄道というものが構造的に犠牲を絶無にできない状況ではどのような対案を立てればよいのか。筆者がまず考えたのは鉄道の代わりとなる交通機関を探すことである。
 自動車は鉄道と比べて安全ではない。しかし、自動運転装置といった装置をすべての自動車に搭載すれば、安全性が飛躍的に高まる可能性がある。
 航空機は鉄道と同等の安全性をもつ。しかし、ひとたび事故が起きれば鉄道に増して多くの犠牲者が発生する。さらに、燃料消費量、騒音、排気ガスなど、さまざまな問題を抱えていることを忘れてはならない。
 続いて考えたのは鉄道自体の安全性を高めることだ。建設工事の殉職者を絶無にすることは大変困難だという。コストを2倍にすれば可能だと語る関係者もいる。
 列車事故や車両事故を根絶するための方策とは何だろうか。第一に考えられるのは保安装置、特に保安度の低い従来のATS(自動列車停止装置)の改良である。
 JR西日本は2009年2月6日に福知山線新三田-篠山口間により保安度の高いATS-Pの設置を完了したと発表した。これで福知山線は尼崎-篠山口間がATS-Pとなったものの、拠点型のPであることが気になる。拠点型のPは場内信号機と出発信号機の現示に対しては連続的に速度を照査する機能が付いているが、信号機の大多数を占める閉そく信号機についてはこうした機能がない。いわばATS-Pの限定動作版である。本来は完全なATS-Pを導入したかったのだが、コスト面で断念したのだという。
 拠点型のPは福知山線だけでなく、関西地区の東海道線でも導入済みだ。はなはだ不十分な保安装置であるが、特に問題視されていない。JR西日本は全国有数の規模をもつ鉄道事業者だ。触らぬ神にたたりなしと考えているのだろう。あるいはここのところ雨後の筍のように現れた鉄道の書き手はそもそも拠点型Pなどご存じないのかもしれない。
 身もふたもない結論で恐縮だが、筆者が望む鉄道の姿など、金さえあれば一瞬に解決する。政府は2009年度の補正予算として15兆4000億円を衆議院に提出した。これだけの額をすべて鉄道に投入すれば、問題点は一瞬にして解決する。だが、10年もたてば元の木阿弥だろう。金持ちと貧乏人との相違は初期投資額の大小もさることながら、消耗品費に最もよく現れる。せっかくATS-Pの設置工事を行っても、すべての車両に車上装置が搭載されないのでは話にならない。
 金などあるはずもないいま、何が必要かというと運賃の改訂、要は値上げである。これは政府にとっての増税と同じで反発が大きいため、おいそれとは実施に移せない。
 JR西日本大阪環状線内の初乗り運賃は120円で、JR各社のなかで最安である。この運賃を10円値上げし、JR東日本の山手線内の初乗り運賃と同じ130円とするだけでも安全投資に回せる金額は大きくなるはずだ。複々線で列車の運転本数の多い東海道線にすら拠点型のPの導入でお茶をにごすくらいならば、青春18きっぷといった明らかなダンピング価格の企画商品など、即刻廃止したほうがよい。
 2000年代の初頭に行政改革が実施された。国土交通省が誕生すると同時に、普通鉄道構造規則や鉄道運転規則の廃止といった規制緩和が行われている。しかし、鉄道事業者や軌道経営者による改革は実施されたのだろうか。
 筆者がかつて勤務していた三井銀行はいまは姿を消した。事実上、経営が破綻し、市場からの退場を余儀なくされたからだ。金融に比べて鉄道の新陳代謝は鈍い。明治、大正、昭和の三代に繰り返し行われた再編の波によって今日の日本の鉄道の姿ができあがった。しかし、平成のいまは護送船団と言ってもよい。皆が一丸となって鉄道の暖簾を守り続けていると言うと聞こえはよいが、沈むときは皆一緒では困る。
 拙文をお読みいただき、鉄道への幻想が打ち砕かれた方も多いことだろう。だが、これが現実なのである。少子化や不況によって昨今、鉄道を取り巻く環境は一段と厳しさを増した。筆者の実感では、いまこそが鉄道を改革する機会だととらえている関係者は日増しに増えていることも確かだ。鉄道は多くの犠牲者の上に発展を遂げてきた。今後、存続するためには何を成すべきなのか。4月25日という日はこのような重い事実を再確認する日なのである。

真島満秀氏の逝去を悼む

 鉄道写真家の真島満秀氏が2009年3月14日に亡くなられた。享年62歳。謹んでご冥福をお祈りいたします。
 極めて単純で、うわべだけの見方をさせていただくと、真島氏の作品の特徴は「ゴージャス」という一言に尽きると筆者は考える。緑は瑞々しく、空は青く、車両はくっきりあるいは幻想的に――と、真島氏の作品は見る者だれもが思い描く「美しい鉄道写真」を裏切ることは決してない。そして、「日本にはこんなに美しい四季と美しい風景とがあり、そのなかをこんなに格好のよい鉄道の車両が走っています。どうです、行ってみたくなったでしょう」と語りかけているかのようだ。
 真島氏の作品に写し込まれた純日本的な風景はごくありふれた当たり前の日常に見える。だが、実際に作品の背景を探ってみると、多くの場合、1年のうちごくわずかな時期と限られた光線状態それに構図でしか写し得ないものだということに気づく。つまり、偶然を装いながら、非常に綿密な計算のもとに撮影されているのだ。映画の『男はつらいよ』で取り上げられる風景がどこにでもありそうで、実はそうではないと申し上げればおわかりいただけるだろうか。
 言うまでもなく、鉄道写真の大多数は屋外で展開されるから、自然写真あるいは風景写真の一つとして分類される。ところが、真島氏の作品は巨大なセットをつくり、その中に鉄道車両を走らせているように思えてならない。にもかかわらず、こうした虚構性を見るものに全く意識させない作品に仕上げられている。フィクションでありながら現実の世界の出来事のように見せる広告写真の手法を鉄道写真に持ち込んだという点で、真島氏の功績は後世に語り継がれることであろう。
 真島氏は鉄道写真界の大御所ではあるが、鉄道愛好者からの反発も多かった。いかに鉄道車両が大きく写されていようとも、どの作品からも鉄道車両への愛情が感じられないからだ。広告代理店勤務の後、真島満秀写真事務所を設立という経歴が拍車をかけているのかもしれない。
 生前の真島氏からうかがった話を総合すると、どうやらあえてそうした手法を選択されたようだ。一個人としての真島氏がどれだけ鉄道車両に愛着を抱いていたのかはわからない。しかし、鉄道写真家・真島満秀としてひとたびカメラを握ったときは、あくまでも美しい風景に見合うように鉄道車両をあしらっていった。誤解のないように申し上げておくが、鉄道車両への限りなき愛着をそのまま作品に反映させることが悪いと言っているのではない。ただ単に「よい鉄道写真」へのアプローチが異なっているだけだ。
 かつて、酒宴の席で真島氏は筆者に次のように諭されたことがある。
「最近の編集者は(写真をどのように掲載すれば最も効果的かが)わかっていない。」
 この言葉を聞いた当時の筆者は「鉄道ファン」編集部を辞めた直後で、よくもかように将来性の乏しい人間に編集論を熱く語りかけてくるのだろうと、いぶかしくもあり、嬉しくもあった。その後、筆者は編集とは異なる分野に進み、真島氏の期待にこたえる機会が訪れることがなかったのは残念だ。ただ、筆者が執筆した出版物、あるいは出演した番組に真島氏も一緒に登場されるといったケースがたびたびあり、もしかしたら筆者のことも思い出していただいたのかもしれない。
 真島氏の告別式の帰途、しなの鉄道の電車の車窓には快晴の空のもと、浅間山がいっぱいに広がっていた。乗り合わせた人たちは見事な浅間山に思わず携帯電話を向ける。果たして、真島氏はこの風景をどのように撮影されただろうか。その答えを知る機会は永久に失われてしまった。

0系へのはなむけ

偉大な名車がついに引退する

 本日、2008(平成20)年11月30日、JR西日本の0系新幹線電車は定期列車としての運転に終止符を打つ。0系が営業を開始したのは1964(昭和39)年10月1日の東海道新幹線の開業日であるから、実に44年2カ月にわたって活躍してきたことになる。
 ここまでのところ、0系によって引き起こされた列車衝突事故、列車脱線事故、列車火災事故は起きていない。営業運転最終日やさよなら運転では相当な混乱が予想されるものの、最後までこの記録を維持したまま0系が役割を終えることを祈る。
 0系が名車であることは言うまでもない。一つ付け加えるとするならば、0系は強運にも恵まれていた。
 先ほど、0系には重大な事故による死者が一人もいないと述べたが、長い活躍期間のなかにはその記録が途切れる可能性もあったのだ。それは1973(昭和48)年2月21日(水)17時27分のこと。国鉄の大阪運転所(現在のJR東海大阪第一・第二・第三車両所)を出庫した回送第715A列車がスリップしたために本来停止する場所を通り過ぎ、営業列車が運転されている本線に出てしまった。このとき、後続の「こだま143号」がもしもあと400mほど回送第715A列車に近づいていたとしたら、衝突は免れなかっただろう。この件については拙著『国鉄形車両事故の謎とゆくえ』(東京堂出版)でも触れたが、まだ調査が足りないと痛感している。0系が引退しても、いや、引退するからこそ引き続き解明していかなければならない。

1985年8月12日が0系の有り様を変えた

 希代の名車といえども、正当な評価を下すことも筆者の使命なので、0系の負の面にも触れておこう。0系は1963(昭和38)年度から1985(昭和60)年度までの22年もの間、基本的な設計を変えぬままつくられてきた。このため、東京-新大阪間の所要時間は3時間前後と1965(昭和40)年11月1日以降、全くと言ってよいほど進歩しなかったのである。
 速度が遅いことによる弊害は多い。最大の問題は輸送力が落ちてしまうという点である。1本の列車が長々と線路を占拠しているため、増発できないのだ。
 一例を挙げると、0系最後の新造車が登場した1986(昭和61)年の11月1日に実施された列車ダイヤ改正で東海道新幹線に設定された列車の本数は1日235本だった。いっぽう、すべての電車が最高速度270km/hで走行可能となった現在、1日の列車の設定本数は75本も多い310本へと増えている。0系が東海道新幹線の主役を務めていたころ、特に「ひかり」の指定席特急券は取りづらかったが、いまはよほどのことがない限り、当日でも確保できてしまう。多くの人は気づかないが、これも0系を追い出したからこその成果なのである。
 もちろん、すべてが0系だけの責任ではない。速度が速く、なおかつ沿線の環境にも配慮した電車の技術の開発が間に合わなかったからでもあり、このころの国鉄が深刻な労使問題を抱えていた事実も影響している。
 しかし、1973(昭和48)年ごろに、いまも東北・上越新幹線で活躍する200系新幹線電車と同様のシステムをもつ電車が東海道新幹線に導入されていたとしたら、どうなっていただろうか。恐らく、東京-新大阪間は昭和50年代の半ばに2時間40〜45分程度で結ばれ、その結果、需要も増加し、列車の増発も行われていたに違いない。
 皮肉なことに0系の製造が打ち切られた1985(昭和60)年度の8月12日、0系の欠点が露わになってしまう。この日、東京(羽田)発、大阪(伊丹)行きの日本航空123便が群馬県の御巣鷹山に墜落し、乗員乗客合わせて520人の方々が亡くなるという大惨事が発生する。この事故と0系との間に何の関連があるのかとお思いだろうが、非常に密接なつながりがあるのだ。
 18時ちょうどに123便には大阪へ出張する人も多く乗っていた。もちろん、東海道新幹線という選択肢も存在する。しかし、当時東京-新大阪間で3時間08分を要する0系は、残念ながら多くの企業にとって費用対効果の優れた乗り物ではなかった。
 ここから先は筆者の知るある企業の人事管理担当者の逸話を紹介することとしよう。その人事管理担当者は運命の日、8月12日に何人かの社員を大阪に出張させる必要が生じた。折しもこの日は旧盆期間ということもあり、東海道新幹線の「ひかり」はどの列車も満席だった。そこで、人事管理担当者はまだ空席が残っていた123便の航空券を確保する。航空券を渡された社員のなかには、飛行機が嫌いなので新幹線で行きたいと拒否した人もいたというが、無理に乗せたのだという。その結果があの大惨事である。犠牲になった社員の苦しみがいかほどのものだったのか、そして人事管理担当者がどれほど悔やんだのかは計り知れない。
 このとき、東海道新幹線の列車がもっと速く走っていれば犠牲者の数はあるいは減ったかもしれないと痛切に実感した鉄道関係者も多くいた。初代「のぞみ」こと300系新幹線電車の開発はすでに始まっていたが、この日を境に開発は本格化したと言えるだろう。その意味で、「のぞみ」の実質的な誕生日は1985年8月12日なのだ。
 300系以降、新幹線の速度は飛躍的に向上した。旧モデルとなった0系は「足が遅い」まま過ごすことになり、1990年代後半以降は実質的に「少々速い在来線の特急電車」として生き長らえる。誤解してほしくないのだが、それでも0系の果たした功績は偉大だ。ただ、0系の引退に当たり、その功績を手放しで礼賛し、その後登場した電車を否定するといった相変わらずの論調に筆者は賛成できない。このため、本欄ではあえて暗い面も述べさせていただいた。そのほうが0系のスケールの大きさを実感できるし、何よりのはなむけになるものと信じる。

サウナと風呂

弁解の余地なく悪人に仕立てられる恐怖

 ここのところ、大相撲に関するニュースが取り上げられない日はない。若ノ鵬関に始まり、露鵬関、白露山関と続いた大麻騒動で日本相撲協会は大いに揺れた。名前が挙がった3人の力士は解雇され、日本相撲協会の北の湖理事長は辞任に追い込まれている。
 筆者は学生時代に自転車競技に取り組み、いまでも観戦を続けている。本場ヨーロッパの自転車競技界での事例を当てはめてみると、若ノ鵬関が部屋を追い出されるのは仕方がないにしても、一定の謹慎期間の後に復帰という処分となりそうだ。また、大麻を所持していない露鵬関、白露山関は厳重注意、北の湖理事長は謝罪会見で十分だろう。とはいえ、相撲とは神事であるから、競技スポーツでの事例を当てはめることには無理があるとの意見ももちろん正しい。筆者のような外野がとやかく言う問題ではないだろう。
 今回の騒動で最も気になったのは報道のされ方である。3力士はもちろん、北の湖理事長も全く弁解の余地なく完全な悪人へと仕立てられた。北の湖理事長に対しては毎日のように辞任を迫っていたと言ってよい。
 筆者はテレビをほとんど視聴しない。しかし、たまたま出先で観た映像はたとえようもなく不快なものだった。それは、北の湖理事長が日課としているサウナに出かける光景である。コメンテーターは「このようなときによくサウナに行けますね」と発言していたのだ。いくら何でもこれは許されない。北の湖理事長の健康状態については筆者は知らないが、たとえば腎臓が悪いために透析を受けに毎日通院していたとしたら、「このようなときによく透析に行けますね」と面と向かって言えるのだろうか。
 日本相撲協会で生じた今回の不祥事をマスメディアが執拗に追及したのは正義感からでは断じてない。新聞や雑誌ならば発行部数が伸び、テレビならば視聴率が上がるからである。裏返して言うと、角界においていかなる不祥事が生じようとも、読者や視聴者の動向に何の変化も起きなければ取り上げられることはなかったに違いない。「大相撲をたたけば儲かるから」との幼い論理で行動したまでだ。

「勤務中の入浴」への批判は鉄道に対する無知から生じたもの

 いま挙げた話は鉄道にも大いに関係がある。ここ数年、マスメディアによって鉄道が好意的に取り上げられているのは、そうしておけばよい数字を獲得できるからに過ぎない。もしも鉄道を批判したほうが部数が伸び、視聴率が上がるとなれば、連日攻撃し続けることだろう。この場合、とにかく、どんな些細なことであっても、あるいは事実を曲げてでも鉄道の悪口が広く伝えられるに違いない。
 鉄道が最もたたかれたのは日本国有鉄道(国鉄)の末期、だいたい1980(昭和55)年から1985(昭和60)年までの間の時期である。確かに当時の国鉄の状況はひどかった。財務状態は破綻していたにもかかわらず、一部の職員は立て直そうという姿勢を見せず、接客態度は劣悪なうえ、不当に手当や休日を取得したりといった不正がまかり通っていたのである。
 国鉄に対するマスメディアの攻撃は1982(昭和57)年に入っていっそう強まった。この年の1月23日、ヤミ手当と言って不正な手段で手当を受給していた事件が明るみに出ると、職場での規律の乱れを追及するニュースで埋め尽くされたのだ。
 確かに、このときに取り上げられたものの大多数はたたかれても仕方がない。一例を挙げれば、勤務中の飲酒や有給休暇中にアルバイトをしていたといった具合にだ。けれども、当時高校生の筆者にはどうしても納得のいかなかった批判があった。それは勤務中に行っていたとして激しく糾弾された入浴だ。
 「勤務中の入浴」という言葉だけを見ると非常に悪い行いに見える。実際に働きもせず、ただ風呂に入っていたとしたら弁解の余地はない。しかし、国鉄、いや鉄道の現業機関における勤務中の入浴とは別の意味を持っていたのである。
 車両に設置されている便洗面所から発生する汚水や汚物は、かつてはすべて線路上に垂れ流されていた。特急列車も例外ではない。ブルートレインブームのころ、小学生の筆者は朝上京する寝台特急列車を線路際で待ち構えていたことがある。あるとき、列車が通過した瞬間、便所から大便が降り注ぎ、筆者の上半身を直撃したのだった。まだ冬だったが、筆者は近くの公園で全身に水を浴び、べそをかきながら帰宅したことを覚えている。
 国鉄の職員は毎日このような状況で車両の検査や修繕を行ったり、線路を保守していたのだ。糞尿にまみれた車両や線路に触れるのだから体が汚れるのは当然だ。手洗いだけでは済まないケースも多い。したがって、他の作業に移ったり、休憩や帰宅する前に入浴するのは当然だ。勤務中の入浴とは本来、こうした行為を指していたのである。
 筆者が学生時代に師事していた自転車のコーチは、若いころにくみ取りのアルバイトを行っていたそうだ。そのコーチによれば、清掃局では勤務中に入浴するのは当然のこととして認められていて、なぜ国鉄の職員が批判されるのか理解できないと語っていた。
 マスメディアでも勤務中の入浴についての行き過ぎた追及ぶりをたしなめた人がいる。作家・劇作家の井上ひさし氏だ。井上氏も車両から垂れ流される汚水や汚物を例に取って反証していた。発行号は失念してしまったが、掲載されたのは「週刊朝日」のコラム欄である。
 当然のことながら、当時の鉄道専門誌、鉄道趣味誌も勤務中の入浴を糾弾するようなことはしていない。鉄道というものを理解していたからである。しかし、強く訴えなかったためか、結局は大新聞やテレビによる批判の大合唱に打ち消されてしまった。
 このような過去を知るだけに、筆者は鉄道が持ち上げられている現在の状況を素直に喜ぶことはできない。マスメディアの都合を分析すれば、結局のところ、針のむしろの上に座っているのと全く変わらないからだ。孔子は「中庸の徳たるやそれ至れるかな」と言ったという。まさにそのとおりで、平穏な日々こそが最もありがたいと痛切に感じる。
 連日たたかれ続けられた1982年から26年、いまや便所や洗面所が設置されている車両には汚物処理装置が装備され、汚水や汚物が線路に垂れ流される光景は姿を消した。そのせいか、鉄道ライターを名乗っている人や、いわゆる鉄道ファンのブログ上で、過去に国鉄の職員が勤務中に風呂に入っていたことを批判する人がいる。これでは、ヒステリー気味のマスメディアに踊らされてしまうのも無理はない。

副都心線の列車ダイヤは強気の設定なのか

山手線の混雑緩和を目指して建設された副都心線

 2008(平成20)年6月14日、東京地下鉄13号線副都心線(以下副都心線)池袋-渋谷間8.9kmが開業を果たす。東京の都心部では久々の新線開業なので、沿線は開業ブームにわいている。
 副都心線は山手線の混雑緩和を目的として計画された。いまから23年前の1985(昭和60)年度に山手線で最も混雑の激しかった区間は代々木駅から新宿駅までの間。最混雑1時間の混雑率は263%(輸送力3万3600人、通過人員8万7310人)、終日の混雑率は138%(輸送力39万7600人、通過人員54万9550人)と、いまから見ると考えられないような数値が並ぶ。筆者は1981(昭和56)年4月から1984(昭和59)年3月までの3年間、高校への通学に山手線渋谷-池袋間を往復しており、毎朝うんざりしながら山手線の外回りの電車に乗っていた。当時、内回りの電車の混雑はさらにひどく、池袋駅ではホームへの入場規制も行われていたほどである。
 2004(平成16)年度は新大久保駅から新宿駅までの間で調査が行われ、最混雑1時間の混雑率は180%(輸送力3万9072人、通過人員7万220人)に、終日の混雑率は82%(輸送力53万728人、通過人員43万7850人)にまで緩和されている。埼京線や湘南新宿ラインといった新しい運転系統の整備の賜物であろう。

池袋駅での列車の本数は有楽町線新木場駅方面よりも多い

 副都心線について筆者が驚いたのはその強気な列車ダイヤ設定である。平日の時刻表を見ると、池袋駅から渋谷駅方面への列車が220本、渋谷駅から池袋駅方面への列車が221本、それぞれ設定されているのだ。何しろ、8号線有楽町線(以下有楽町線)の池袋駅から新木場駅方面の列車の本数が平日で215本なのだから、いかに東京地下鉄が副都心線の利用客が多いと考えているかがおわかりいただけることだろう。
 東京地下鉄がここまで強気な需要をはじき出した背景を探ってみたい。実はいままでのデータも国土交通省総合政策局監修、『都市交通年報』、運輸政策研究機構から引用していた。ここからは2008(平成20)年3月に発行された平成19年版を用いて分析させていただく。
 副都心線にとって最もお得意さんとなるのは有楽町線和光市駅方面と山手線品川駅方面とを乗り換えている利用客だろう。副都心線では和光市-渋谷間の運転となる列車が多い。池袋駅での乗り換えが解消され、便利になるからだ。
 2005(平成17)年度に池袋駅で有楽町線とJR東日本の路線とを乗り継いだ利用客の数は1日当たり1万6523人だ。この数値は定期乗車券の利用客だけで、普通乗車券の利用客数は含まれていない。というのも、流動量の調査では連絡乗車券の利用状況に基づいて算出するのだが、東京地下鉄とJR東日本との連絡乗車券はあまり一般的ではないからだ。
 池袋駅で有楽町線を乗り降りする人のうち、和光市駅方面から来たあるいは向かう人の数は1日当たり6万9931人。内訳は普通乗車券が3万9423人、定期乗車券が3万508人だ。一般乗車券と定期乗車券の割合から考えると、有楽町線とJR東日本とを乗り継いだ人の数は2万1351人と考えられる。
 問題はJR東日本の路線に乗り換えた人のうち、何人が山手線品川駅方面から来たかあるいは向かうかだ。山手線の池袋駅で乗り降りした人の動向を見ると、品川駅方面に関係する人の数は1日当たり45万3864人、いっぽう田端駅方面に関係する人の数は23万7259人となっている。比率としては1.9対1だ。したがって、先ほどの2万1351人のうち、1万4021人が有楽町線和光市駅方面と山手線品川駅方面とを乗り換える利用客の数と考えられる。
 とはいうものの、1日当たり1万4021人の利用客しか見込めないのでは輸送力があり余ってしまう。副都心線池袋駅から隣の雑司ヶ谷駅までを基準に考えると、220本の列車のうち8両編成(定員1136人)で運転される列車は125本、10両編成(定員1424人)は95本なので、終日の輸送力は27万7280人となるからだ。
 そこで、東京地下鉄は東武鉄道東上本線(以下東上線)と西武鉄道池袋線と山手線品川駅方面とを乗り継ぐ利用客に着目した。ご存じのとおり、副都心線はこれら両路線とも相互直通運転を実施しているから、開業によって山手線からの移行が見込める。
 東上線の場合、このようなケースに該当する利用客の数は1日当たり9万4705人。池袋線は1日当たり6万3853人となる。これら両線の利用客がすべて副都心線に移行したとしてもまだ15万8558人。実際には多くても半分程度だろうから7万9279人。これに先ほどの1万4021人を足して9万3300人となり、終日の輸送力27万7280人に対する終日の混雑率は34%となる。

終日の混雑率は何%であればよいのか

 そもそも、終日の混雑率(=利用率)は何%であれば経営上及第点が付けられるのだろうか。東京地下鉄の場合、この数値が最も高いのは2路線あり、それぞれ78%を記録している。3号線銀座線赤坂見附駅から溜池山王駅までが輸送力22万1312人に対し、通過人員は17万2904人、5号線東西線木場駅から門前仲町駅までが輸送力38万7328人に対し、通過人員は30万1543人だ。国土交通省が調査した区間で最も低いのは同じく5号線東西線の高田馬場駅から早稲田駅までの36%。輸送力37万8784人に対し、通過人員は13万7388人である。
 さすがに34%という数値では心もとない。東京地下鉄は山手線から移行する利用客の数も計算に入れているはずだ。比較する区間が異なっているものの、冒頭で挙げた新大久保駅から新宿駅までの輸送人員43万7850人のうち、10%の人たちが副都心線を利用するようになれば、9万3300人に4万3785人を加えて13万7085人。終日の混雑率は49%にはね上がる。
 49%という数値はそう悪くはない。欲を言えばあと10ポイントほど上乗せしたい。ならば、輸送力をあと4万4933人差し引いて23万2347人とすれば達成できる。8両編成の列車ならば40本、10両編成ならば32本減らせばよい。
 しかし、これでは朝夕のラッシュ時に大混雑となってしまうのだろう。いま挙げた5号線東西線の高田馬場駅から早稲田駅まででも、最混雑1時間の混雑率は131%(輸送力は3万4176人、輸送人員は4万4933人)とそれなりの混みようだ。副都心線の最混雑1時間の混雑率がいかほどとなるのかは不明だが、国土交通省の指導もあるので、東京地下鉄としては恐らく150%程度に抑えておきたいはずである。したがって、27万7280人という輸送力は東京地下鉄が熟慮の末に導き出した数値であり、ことによると、これでも弱気な列車ダイヤとも言えるだろう。
 本稿が開業ブームを祝っているのか、それとも水を差しているのかどうかはわからない。いずれにしろ、副都心線が建設時の目的を果たし、なおかつ安全に運行されることを祈る。

1962年5月3日

憲法記念日に起きた悲劇

 5月3日といえば憲法記念日である。鉄道の歴史について深い関心を抱いておられる方ならば、1962(昭和37)年のこの日に起きた列車衝突事故を思い浮かべられるに違いない。
 列車衝突事故の名を三河島事故という。事故の経緯は次のとおりだ。
 1962年5月3日21時35分40秒から36分00秒にかけての間、東京都荒川区荒川3丁目16番〜6番の常磐線三河島駅下り1番線を走行していた貨物列車の田端操発、水戸行き第287列車(45両編成、水上憲文機関士)が、停止を現示していた三河島駅の出発信号機を約35km/hで冒進して安全側線に進入する。その際、先頭のD51形蒸気機関車の364号機(以下、D51 364)と2両目のタキ50000形タンク貨車タキ50044とが脱線。D51 364が隣接する常磐線下り本線をふさいでしまう。
 第287列車が脱線した直後、下り本線を約60km/hで走行していた上野発、取手行きの第2117H列車(6両編成、乗客約1200名、芳賀幸雄運転士)がD51 364と追突するような形で衝突。先頭車のクモハ600055と2両目のクハ79396が脱線し、常磐線上り本線側に飛び出す。
 21時41分から42分にかけての間、今度は取手発、上野行きの第2000H列車(9両編成、乗客約600名、高橋英治運転士)が約80km/hで両者の事故現場に進入する。先頭車のクハニ67007は第2117H列車のクモハ60055と激しく衝突して大破。2両目のモハ72549、3両目のサハ17301、4両目のモハ72635の3両は高架橋から転落してしまう。
 一連の事故による死者は乗客159名と高橋運転士の合わせて160名。負傷者は296名に達する。
 言うまでもなく、三河島事故の原因は第287列車の信号冒進だ。そして、第287列車と第2117H列車とが衝突した後に列車防護措置を取らなかったために第2000H列車が衝突し、被害を拡大させてしまった。
 事故後、国鉄は2つの対策を講じた。自動列車停止装置(ATS)の導入と、列車無線装置の導入である。前者は三河島事故の発生要因を、後者は拡大要因をそれぞれ根絶するためであることはもうおわかりだろう。

三河島事故後、国鉄が追放したかったものは何か

 このような記し方をすると、犠牲になられた方々には何ともやりきれない言い方となってしまうが、国鉄はこのような事故が三河島駅構内で発生するかもしれないと、ある程度は予測していた。常磐線日暮里-岩沼間の複線とその枝線である三河島-田端間、三河島-隅田川-南千住間とが平面で交差するという当時の三河島駅付近が運転上の要注意個所に指定されていたとの事実からも明らかである。実際に1950(昭和25)年1月26日21時45分には、取手発、上野行きの列車が本線を横断していた田端発、隅田川行きの貨物列車に衝突。6名の負傷者を出す事故を起こしている。
 三河島事故を伝える当時の新聞記事を見ると、現代と同様に識者のコメントが掲載されていた。筆者が興味深く感じたのはある高名な評論家のコメントである。いまの鉄道員はたるんでいる。昔は皆しっかりしていた云々という内容だった。
 もちろん昔の鉄道員のほうが偉かったということもない。たとえば、1916(大正5年)11月29日に東北本線下田-古間木(現在の三沢)間で発生した列車衝突事故は、古間木駅の助役と駅員が勤務中に飲酒したことが要因の一つだ。閉そく区間に列車が運転されているにもかかわらず、泥酔した助役はタブレット閉そく機を不正に操作し、他の列車にタブレットを与えたのである。
 三河島事故の発生要因について、国鉄は評論家の意見には全く耳を貸さなかった。なぜならば、第287列車の運転状況、そして事故後逮捕された水上機関士と機関助士との供述から「たるんで」いたとは全く考えられなかったからである。
 第287列車が三河島駅構内に進入した際、場内信号機は注意信号を現示していた。制限速度は45km/hである。実はこの時点で第287列車は信号の現示どおりに運転していた。安全側線に進入した同列車の速度が35km/hだったことからも明らかである。
 問題はここからだ。水上機関士は、出発信号機の手前300mでの喚呼を怠り、停止信号を現示している出発信号機に気づかなかったと供述している。これは、罪を軽くするためにうそを語ったと断言してよい。というのも、出発信号機が進行に変わると信じ、そのまま石炭を投入し続けたとの供述が機関助士から得られたからだ。
 つまり、水上機関士は故意に第287列車を停止させず、その結果、事故を引き起こしたのである。実を言うと、列車ダイヤ上、同列車に対して三河島駅の場内信号機が注意信号を現示していても、出発信号機は進行信号に切り換わると水上機関士は予測していた。ところが、不運なことに当日は第2117H列車が約4分遅れて三河島駅を出発したため、出発信号機は進行信号を現示することはなかった。予想を的中させられなかった代償はあまりにも大きい。
 国鉄にとっては、三河島事故が職員の怠慢によって発生したほうがまだ気が楽だったことだろう。しかし、現実には恐らくは優秀な部類に属する機関士がよかれと思って取った行動が大惨事を引き起こしたのだ。
 毎年ゴールデンウィークとなると、筆者の生まれる前に発生した三河島事故について思い起こす。あの事故で国鉄が本当に追放したかったのは何だったのだろうかと。それは、ときとして誤った予測を行う優秀な職員、そして性能が悪いうえに運転技能の差が現れやすい蒸気機関車だったのかもしれない。

リチウムイオン充電池と鉄道

便利なリチウムイオン充電池にも落とし穴が

 携帯電話、デジタルカメラ、ノートパソコン――。いまやリチウムイオン充電池は日常生活に欠かせない。筆者自身、リチウムイオン充電池に囲まれた生活を送っているが、どのようなものなのかはよくわからないので、清水博之氏の「電池&充電池を使いこなそう ニッケル水素VS.リチウムイオン」というホームページを紹介しよう。この記事によれば、リチウムイオン充電池は「自己放電が非常に少な」く、「メモリー効果(浅い深度の放電を含む充放電が繰り返し行われると、一時的に放電電圧が低下して正常な容量が取り出せなくなる現象)がない」。しかも、「小型でありながら大容量の電気を蓄えられ」、「軽い」という特長をもつという。
 ところが、リチウムイオン充電池には大きな欠点がある。充電の際に膨張するという特性をもつため、充電し過ぎると発火や爆発の危険性が高まるのだ。とはいうものの、通常は充電池の内部に膨張を抑えるための保護回路、そして充電器にも過充電を監視して充電を打ち切る機能がそれぞれ組み込まれているので安心して使うことができる――。
 と断言したいところだが、リチウムイオン充電池はなかなかデリケートな製品らしく、発火事故が結構多い。写真家の広田尚敬氏が記された2008(平成20)年1月2日付けの「広田尚敬の鉄道コラム」によると、購入したばかりのDVDプレーヤーに用いられていたリチウムイオン充電池が発火事故を起こしたとあった。詳しい状況を見ると、発火というよりも爆発と言ったほうがよい。ともあれ、けがや火災につながらなかったのは不幸中の幸いだ。

ハイブリッド車両に搭載されたが、車両用蓄電池としては課題が山積

 この発火事故について筆者もコメントを寄せ、そのなかでリチウムイオン充電池が鉄道にも使用されている点を指摘した。鉄道とリチウム充電池との関係について、その後も調べてみたので報告したい。
 リチウムイオン充電池を採用した鉄道車両の代表格として挙げられるのはJR東日本のキハE200形(http://www.jreast.co.jp/press/2007_1/20070704.pdf)である。JR東日本が「世界初のハイブリッド車両」と銘打ったこの車両の屋根の上には15.2kWhの容量をもつリチウムイオン蓄電池が搭載された。定格出力95kWのMT78形主電動機を駆動するだけの電力を取り出すことができる。
 実はキハE200形がリチウムイオン蓄電池を搭載しているのはとても画期的な出来事なのだ。ハイブリッド車と聞いて多くの方が頭に思い浮かべる存在といえば、トヨタ自動車のプリウスという乗用車だろう。プリウスのスペック(http://toyota.jp/prius/spec/spec/)を見ると興味深い事実に気づく。ハイブリッド車の要とも言える充電池にニッケル水素電池を用いているのだ。つまり、電池の面ではJR東日本はトヨタ自動車よりも進んだ技術を導入したのである。
 新聞記事などによると、トヨタ自動車もハイブリッド車の充電池をリチウムイオン電池としたかったらしいのだが、コストや安全性の理由などで見送ったのだという。コストはともかく、安全に問題があると言われると、それではキハE200形は大丈夫なのかと心配となる。
 鉄道車両に搭載されている充電池に関する資料を探したところ、「鉄道と電気技術」(日本鉄道電気技術協会)の2005年2月号に掲載された「現用の鉄道車両用蓄電池の概要および新しい鉄道用リチウムイオン二次電池の開発」という記事が見つかった。電池メーカーのジーエス・ユアサコーポレーションの研究開発センター第三開発部の村田利雄氏の執筆によるものだ。
 この記事によれば、鉄道車両には停電時やバックアップ用の電源として車両用蓄電池が搭載されているという。よく鉄道趣味誌の新車記事を見ると、バッテリーなどと記されており、これを指す。読み進めてみると、車両用蓄電池の歴史は鉛蓄電池に始まり、アルカリ蓄電池へと進化したという。そして、現在はアルカリ蓄電池のなかでもモノブロック焼結式アルカリ電池が主流なのだという。
 ジーエス・ユアサコーポレーションが電車用に供給しているモノブロック焼結式アルカリ蓄電池のQFYM形は10機種ある。5時間使用時の定格容量ごとに分けられ、7.5Ahから100Ahまでの能力をもつ。そのうちの30Ahのものは質量が約114kgと巨大だ。
 いっぽう、同社が開発した鉄道用大型リチウムイオン二次電池は容量55AhのLIM55H形と同じく60AhのLIM60H形の2種類だという。どちらも質量は約4kgしかない。実際に車両用蓄電池として使用するためにはLIM55H形、LIM60H形とも7個組み合わせる必要があるが、それでも約28kgである。何ごとにも小型軽量化が求められる鉄道車両用の機器のなかにあって、リチウムイオン充電池は確かに魅力的な存在だ。
 とはいうものの、筆者が調べた限りでは停電時やバックアップ用の車両用蓄電池としてリチウムイオン充電池を採用した車両はまだ登場していない。最も大きな理由はコスト面でによるものと思われるが、安全性の問題もあるのだろう。
 放熱性に優れた屋根上という「一等地」を確保してもらったキハE200形のリチウムイオン蓄電池と異なり、通常の車両用蓄電池は床下に搭載される。主電動機やディーゼル機関などから生じる熱がこもりやすく、しかも振動や衝撃も激しいとなると、実績のないリチウムイオン充電池の採用に踏み切るのは時期尚早なのかもしれない。
 逆に言えば、キハE200形はずいぶん思い切った施策を採ったと言える。先ほど「画期的」と記したのもこの点を踏まえてのものだ。本来ならば、JR東日本も安全面に不安のあるリチウムイオン蓄電池を採用したくなかったのかもしれない。だが、ニッケル水素蓄電池やアルカリ蓄電池では重すぎて車両を成り立たせることができなかったのだろう。
 筆者はリチウムイオン充電池が危険だとことさらあおり立てるつもりはない。ただし、発火事故が身近に起きている現状を見ると、どうしても不安となる。恐らく、キハE200形に搭載されたリチウムイオン蓄電池は電池メーカーの威信をかけて開発したものだから、製造上の問題はまずないはずだし、メンテナンスの体制にも万全を期しているに違いない。しかし、電池メーカーの手を離れ、鉄道事業者や軌道経営者だけで使用するとなるとどうなるのだろうか。実用化までにはまだいくつか解決しなければならない課題が山積していると言える。

上越新幹線と冬

雪に悩まされない新幹線

 「鉄道よもやま話」では2008(平成20)年最初のテーマとして上越新幹線を取り上げたい。読者の皆様のになかには冬の上越新幹線を利用された方も多いことだろう。豪雪地帯を行く上越新幹線の円滑な運転は沿線に設けられたスプリンクラーをはじめとする消雪設備によってもたらされている。おかげで、開業以来、上越新幹線は大量の積雪に見舞われても大きな遅れもなく列車が運転されてきた。上越線の列車がしばしば雪に悩まされてきたことを思うと上越新幹線のありがたさが身に染みる。「新幹線の旅は味気ない」などと言っては罰が当たるだろう。
 冬の上越新幹線の風物詩といえば線路際で豪快に散水を行うスプリンクラーである。上越新幹線の場合、スプリンクラーは上毛高原駅から新潟駅までの間、さらに新潟駅から車両基地のある新潟新幹線車両センターまでの間にも設置された。スプリンクラーに使用される水は沿線の河川または大清水トンネルの湧水だ。これらは沿線各所に設けられた消雪基地で気温、降雪状況に基づいて一定の温度(3.5〜45.2度)まで温められ、バラスト軌道区間ならば1平方m当たり1分間に1.2リットル、スラブ軌道区間ならば同じく0.7リットルそれぞれ散水される。まき終わった水はリサイクルされ、ゴミなどを濾過した後、再び温められて雪を取り除く。

融雪費用はいくら

 ただいまの大ざっぱなあらましからもおわかりのとおり、これら一連のサイクルには多大なエネルギーを消費する。水を汲み上げ、スプリンクラーまで送り、回収、濾過するためには電力が、さらには適温まで加熱するためには灯油または都市ガスが必要だ。
 当然といえば当然かもしれないが、JR東日本は上越新幹線の融雪費用を公表していない。筆者の手元には1983(昭和58)年3月15日付けの日本経済新聞朝刊の記事があり、ここには国鉄がまとめた上越新幹線の融雪費用が掲載されていた。ここから現代の融雪費用を推理することとしよう。
 新聞記事によると、1982(昭和57)年12月1日から1983年2月28日までに国鉄が支払った融雪費用の総額は14億1900万円だったそうだ。総務省統計局が発表した「消費者物価指数戦前基準東京都市部指数(持家の帰属家賃を除く総合)」に基づいて現在の貨幣価値に換算すると約16億6692万円である。
 内訳は、灯油代が966万1000リットルで8億200万円(同約9億6458万円)、電力代が1410万9000kWhで4億4300万円(同約5億2111万円)、都市ガス代が76万4000立方メートルで8000万円(同約9411万円)、重油代が114万3000リットルで9400万円(同約1億1057万円)だ。このなかで、重油はスプリンクラーを動かすためには用いられず、駅舎や車両基地等の屋根に積もった雪を取り除くために用いられる。
 仮に2007(平成19)年から2008年の冬の気象条件が1982(昭和57)年から1983年にかけてのものと同じであれば、基本的にはエネルギーの消費量は同じとなるはずだ。ちなみに、1982年から1983年にかけての冬は暖冬だったという。今シーズンはどうなるのかは不明だが、当初国鉄は1982年から1983年にかけての冬が平年どおりの気候であれば融雪費用に41%増しの20億円(同約23億5000万円)を見積もっていた。つまり、エネルギーの消費量も41%分増えると考えればよいだろう。
 まずは灯油の価格だ。財団法人日本エネルギー経済研究所石油情報センターによると、2007(平成19)年12月25日現在、新潟県内での灯油の店頭価格は18リットル当たり1750円だという。1リットル当たり97.2円であるから、966万1000リットルならば9億3904万9200万円だ。
 続いては電力代を計算してみた。本来ならば新潟県内に電力を供給している中部電力の料金表から算出すべきだが、当ホームページではおなじみの『平成17年度 鉄道統計年報』(国土交通省鉄道局監修、政府資料等普及調査会、2007年3月)の500ページにはJR東日本が運転用電力として消費した電力の数量(39億7226万9177kWh)と代価(395億6151万4000円)とが記されている。こちらのほうがより正確な価格が引き出せるだろう。
 計算してみると、JR東日本は1kWh当たり9.9円を支払っていた。この数値を当てはめると電力代は1億3967万9100円である。
 都市ガス代も計算してみよう。新潟県内に都市ガスを供給している北陸瓦斯株式会社の2008年1〜3月の料金表によれば、1カ月に350立方mを超える使用量の顧客に対し、月額の基本料金は3133.20円、1立方m当たりの料金は93.38円だそうだ。
 基本料金は12月から翌年2月までの3カ月間を支払うことになるので9399.6円。これに76万4000立方メートルを使用した7134万2320円を足して7135万1719.6円となり、1円未満の端数を切り捨てて7135万1719円となる。
 最後は重油代だ。先ほどの財団法人日本エネルギー経済研究所石油情報センターは2007年11月のA重油の価格を最新のものとして公表していた。それによると、新潟県を含む関東局管内では大型ローリー(8000リットル以上)で納入した場合は1リットル当たり72.7円、小型ローリー(8000リットル未満)ならば78.9円だという。使用している量から言って大型ローリーで運ばれると考えられるので、1リットル当たり72.7円を採用すると、8309万6100円という数値が得られる。

1日当たり1370万1957円で得られる「平常通りの運転」

 灯油、電力、都市ガス、重油の代価をすべて合わせると12億3317万6119円となった。12月1日から2月末日までの日数は90日(閏年なら91日)だから、1日当たり1370万1957円である。不思議なことに国鉄時代の14億1900万円よりも安くなっており、昨今の原油高を考えると不思議に思えてしまう。よく見ると、当時と比べて灯油代や重油代は上昇しているが、電力代や都市ガス代はむしろ下がっているからだ。いずれにせよ、これは暖冬だからこその数値であり、もしも平年並みの冬であれば、41%増の17億3877万8327円と考えたほうがよいだろう。
 本稿を記したのは2008年1月3日(木)の未明である。この前日、つまり1月2日(水)も上越新幹線は当然のことのように「平常通りの運転」が行われていた。「どんな豪雪に見舞われてもまずもってびくともしない――」。当たり前のようで果てしなく困難な作業を上越新幹線は今日まで成し遂げてきたのである。

『鉄道用語の不思議』の未収録原稿から その2

カルダン軸駆動装置

 前回の当欄、「つり掛式支持装置」で説明したとおり、電動機台車装架駆動装置の究極的な形態は台車枠だけで主電動機を支える方式である。この理想を実現するため、カルダン軸駆動装置が開発された。
 カルダン軸駆動装置とは、主電動機軸と小歯車との間に継手を設け、この継手をたわませることで線路からの衝撃や振動を吸収させる仕組みだ。JISは「台車枠に装架した主電動機と駆動用歯車装置との間にたわみ軸継手を挿入して駆動力を伝達する装置。」(JISE4001の番号32108)と定義している。対応英語は「cardan shaft driving device」だ。
 世界で初めてこの装置が搭載されたのは1936(昭和11)年にアメリカ合衆国の各都市に登場したPCC(Presidents' Conference Committee、経営者協議委員会)カーと呼ばれる路面電車である。1920年代後半、全米の路面電車の経営者たちはPCCを結成。次世代路面電車の共同開発に取り組む。カルダン軸駆動装置はその過程で開発され、約5000両ものPCCカーに搭載された。
 装置名の「カルダン(cardan)」とは発明者の名にちなんだものといわれているが、資料を見る限り、PCCのメンバーにも技術者にもカルダンなる人物は見当たらない。それもそのはず、米国ではたわみ軸継手をカルダンジョイントと呼んでいて、この機構を採用したことからそのように命名したまでなのだ。なお、JISでいうカルダン軸、英語名でカルダンシャフトとは、たわみ軸継手を軸の両端または一端に取り付けた軸を指す。
 たわみ軸継手を発明した人物は16世紀のイタリアの数学者、医学者、占星術師であるジェロニモ・カルダノ(Geronimo・Cardano、1501〜1576)である。文献によってはジェロニモではなくジェロラモ(Gerolamo)ともいう。カルダノはたわみ軸継手の実物をつくりはしなかった。しかし、著書にその理論が掲載されており、後に実用化に成功した学者や技術者がカルダノからカルダンと名付けたのだ。
 戦後、日本でもPCCカーを手本にこぞってカルダン軸駆動装置の開発に着手する。この装置を最初に搭載したのは電車ではなく、意外にも気動車だった。1952(昭和27)年に国鉄から登場した電気式ディーゼル動車のキハ44000形である。
 1953(昭和28)年になると民鉄各社からカルダン軸駆動装置を採用した電車が続々と登場。乗り心地はよく、軌道への影響も少ないと好評で以後爆発的に普及する。1960(昭和35)年ごろまでには国内向けに製造された電車のほぼすべてにカルダン軸駆動装置が装着されるようになった。
 カルダン軸駆動装置は車軸に対して主電動機をどのように配置するかによって直角カルダン駆動装置(同番号32109)と平行カルダン装置(同番号32110)の2種類に分類される。車軸に対して主電動機を直角に配置するのが直角カルダン駆動装置、平行に配置するのが平行カルダン装置だ。
 直角カルダン駆動装置はPCCカーに採用され、いわばカルダン軸駆動装置の元祖である。日本でもキハ44000形や東京急行電鉄の5000系電車(1954年登場)、相模鉄道の電車などに搭載されていたが、近年は採用例が少ない。
 現在の主流は平行カルダン装置だ。この装置はたわみ軸継手に歯車形たわみ軸継手(同番号32113)を用いたものと平板形たわみ軸継手(同番号32114)を用いたものの2種類に分類される。筆者の拙い説明よりもJISの定義のほうがわかりやすい。前者は「主電動機軸と減速歯車装置の小歯車軸との間の相対変位にかかわらず動力伝達を行うたわみ軸継手で,内歯車とクラウニングを施した外歯車とを組み合わせたもの。」、後者は「主電動機軸と減速歯車装置の小歯車軸との間の相対変位にかかわらず動力伝達を行うたわみ軸継手で,二組のたわみ板を組み合わせたもの。たわみ板継手(中空軸平行カルダン駆動装置用)とTD継手(中実軸用)とがある。」である。
 以上から、平行カルダン装置には歯車形たわみ軸継手平行カルダン装置(同番号32112)と平板形たわみ軸継手平行カルダン装置とが存在するはずだが、前者はJISで定義されているものの、後者はJISにはない。その代わり、JISは後者に含まれるものとして中空軸平行カルダン駆動装置(同番号32111)を定義し、TD継手を用いたものは開発されたばかりということもあり、まだ命名していない。いずれ用語として定義されるはずだが、本稿ではTD継手平行カルダン駆動装置と呼ぶこととしよう。
 歯車軸たわみ軸継手平行カルダン装置は新幹線から在来線、民鉄まで一般的に採用されている。補足すると、歯車軸たわみ軸継手の定義で現れるクラウニングとは傾斜を付けることを指す。内歯車と外歯車とがかみ合いながらもある程度は角度の変化を許容する方式だ。JISでは慣用語としてWN継手、対応英語としてWN gear couplingと定義している。WNとはこの機構を開発したウエスチングハウス(Westinghouse)社とナタール(Nuttall)社の頭文字を組み合わせたもの。WN継手を用いれば平行カルダンだと判明するため、WNカルダンと略されることも多い。
 中空軸平行カルダン装置は国鉄形の電車に大量に採用された。主電動機軸が中空になっていて、その内側にはねじり軸を貫通させ、両端にたわみ板継手を取り付ける仕組みだ。主電動機軸の出力は小歯車とは反対側に設けられたたわみ板継手を介してねじり軸へと伝えられ、主電動機と小歯車との間にあるもう一つのたわみ板継手を経由して小歯車へと向かう。歯車軸たわみ軸継手よりも幅が狭くて済むという長所をもつのだが、直流電動機から小さな誘導主電動機が主流となったため、あまり採用されなくなった。
 TD継手平行カルダン駆動装置とは歯車軸たわみ軸継手の代わりにTD継手を設けたものと考えるとわかりやすい。たわみ板は中空軸平行カルダン駆動装置のものよりも幅が広く、2枚の円筒を組み合わせたかのように見える。この形状からツインディスク(Twin Disc)と名付けられ、略してTDと呼ばれるようになった。歯車軸たわみ軸継手と比べると惰行時の騒音が小さいため、ここのところ主流となりつつある。
 鉄道用語としてカルダン軸駆動装置を考えると2つの問題点にたどり着く。1つは同じ構造であるにもかかわらず、鉄道事業者や軌道経営者、車両や機器メーカーがまちまちな呼び方をしているという点。もう1つはカルダン軸駆動装置ではないものまでこの仲間に入れているという点だ。
 最初の問題から見てみよう。筆者の見たところ、別名が多いのは多いのは歯車形たわみ軸継手平行カルダン駆動装置である。鉄道趣味6誌からランダムに取り上げると、「可とう歯車付き1段歯車付き減速」(国鉄200系新幹線電車)、「平行カルダン歯車たわみ軸継手」(JR東海700系新幹線電車、JR東日本E2系新幹線電車)、「歯車型継手式平行カルダン軸駆動 WN継手」(名古屋鉄道2200系電車)といったところだ。
 鉄道事業者の発表どおりに記載しているためにこのような現象が発生するのだろう。恥ずかしながら、筆者もJISの定義する名称で記載するようになったのは最近のこと。それまでは鉄道会社やメーカー各社の資料どおりに記述していた。しかし、どのような装置なのか一目でわかるよう、今後は歯車形たわみ軸継手平行カルダン駆動装置に統一しなくてはならない。
 続いての問題の代表例はクイル駆動装置(同番号32106)である。この装置は1960年代初頭の国鉄の電気機関車に採用されていたが、すでに国内では見ることができない。したがって、近年は鉄道趣味6誌でクイル駆動装置自体が取り上げられる機会がないものの、かつては多数の記事中でカルダン軸駆動装置の一種であるかのように取り上げれていた。
 仕組みは次のとおりだ。主電動機は台車枠だけで支えられ、小歯車は主電動機軸に直接取り付けられている。いっぽう、大歯車は車軸とは直結していない。クイルと呼ばれる中空軸を介して取り付けられている。車軸とクイルとの間にはあえてすき間が設けられ、線路からの衝撃と振動とをここで吸収しているのだ。もちろん、このままでは出力を伝えることができないから、大歯車と車軸とはスパイダと呼ばれるアーム状の部品によって固定されている。
 以上の説明でご理解いただけたことだろう。クイル駆動装置を構成する部品にたわみ軸継手は含まれていない。したがって、カルダン軸駆動装置の一種と見なすのは明らかに誤りである。台車枠だけで主電動機を支えている点に気を取られ、まぎらわしい記述となってしまったのだろう。
 最近の混同例は、日本で初めてカルダン軸駆動装置の量産化に成功した東洋電機製造の発表したニュースリリース中に見ることができる。同社は2004(平成16)年3月12日、長崎電気軌道に超低床路面電車の3000形を導入したと発表した。3000形電車は直角カルダン駆動装置を採用しているというものの、記事をよく眺めてみると、主電動機は車体に装架されているという。
 JISの趣旨を解釈すると、主電動機軸と小歯車との間にたわみ軸継手を設置しているという点はもちろん、主電動機を台車枠だけで支えている点にも着目し、両者を満たしている場合にのみカルダン軸駆動装置と呼ぶことに定めた。もしも3000形電車のような構造をこの仲間に含めてしまうと、車体にディーゼル機関を搭載するディーゼル機関車や気動車もカルダン軸駆動装置と呼ばなくてはならない。というのも、これらの車両の動力伝達装置にもたわみ軸継手は採用されているからだ。
 東洋電機製造は1953(昭和28)年に日本で初めて電車用のカルダン軸駆動装置の実用化に成功し、京阪電気鉄道の1800系電車に搭載したメーカーである。それだけに同社が右と言えば皆右というほどの影響力をもつ。実際、鉄道趣味6誌も3000形電車は直角カルダン駆動装置を採用していると記載したほどだ。
 このような誤りはなかなか訂正できない。あるいは車体に主電動機を搭載していてもカルダン軸駆動装置と呼ぶように改めることも考えられるが、この装置の趣旨から言ってそれも無理だろう。

カルダン軸駆動装置についてのまとめ


1.主電動機を台車枠だけで支え、主電動機軸と小歯車との間にたわみ軸継手を設けた動力伝達装置。
2.直角カルダン駆動装置、平行カルダン駆動装置とに大別され、さらに、平行カルダン駆動装置には歯車形たわみ軸継手平行カルダン駆動装置、TD継手平行カルダン駆動装置、中空軸平行カルダン駆動装置の3種類が存在する。
3.主電動機を台車枠だけで支えているという点でクイル駆動装置はカルダン軸駆動装置と似ているが、両者は全く異なるものだ。また、電動機車体装架駆動装置の一種としてもとらえられているが、同様に全く異なる。

『鉄道用語の不思議』の未収録原稿から その1

 おかげさまで、拙著『鉄道用語の不思議』(朝日新聞社)は発売から日が浅いにもかかわらず、皆様から大きな反響をもって迎えられている。この場を借りて感謝申し上げたい。このような地味なテーマにもかかわらず、多くの方々が鉄道用語に興味を抱かれているという事実に意を強くするとともに、これまで読者の皆様が本当に読みたかった事柄を伝えていなかったと猛省する次第だ。
 さて、『鉄道用語の不思議』には何本か収録を見送った原稿が存在する。内容として不十分だったとは筆者は思わないが、やや専門的に過ぎるといった理由と誌面の制約の関係で掲載を断念せざるを得なかった。2007(平成19)年9月14日付けの当欄で旧形電車に関する拙稿を掲載したが、今回はつり掛式支持装置(つりかけしきしじそうち)についての拙稿を紹介したい。

つり掛式支持装置

 電気機関車や電車が搭載している主電動機の出力を車軸にどのように伝えるのか。ドイツはベルリンで初めて電気車が現れた1879(明治12)年以来、先人たちはこの難題に取り組んできた。その歴史をたどっていくと実に興味深い。簡単に振り返ってみよう。
 ごく初期の電気車では車体に主電動機を搭載していた。出力が低い割にモーターが大きかったからだ。主電動機の出力は蒸気機関車のようにロッドなどを介して車軸に伝えられる。このような装置を電動機車体装架駆動装置という。旧軽井沢駅舎記念館(長野県北佐久郡軽井沢町)に保存されている日本初の10000形(EC40形1号機)電気機関車(1911年製)もこのような装置を搭載している。
 19世紀も終わりごろとなると主電動機の小型化に成功し、搭載場所も車体から台車へと移されることとなった。正確には主電動機を保持するのは台車枠だ。このような装置を電動機台車装架駆動装置という。主電動機軸には小歯車、車軸には大歯車をそれぞれ装着し、互いにかみ合せれば、主電動機の出力を車両が走行するための動力へと変換することできる。
 ここで問題が生じた。走行中、車軸は前後左右に動くため、軌道からの衝撃や振動を受けると小歯車と大歯車とが外れてしまうのだ。それならばと車軸で支える方法が考案された。しかし、主電動機の重量は1t以上もある。当時の技術では主電動機を保持可能な車軸を製造することは困難だったし、車軸が重くなると軌道を破壊しやすくなるとして見送られた。
 こうして、台車枠と車軸とで主電動機を支える方式が考案される。これがつり掛式支持装置(JISE4001の番号32104)だ。JISの定義は「主電動機の質量の一部を軸受を介して動軸に負荷させるとともに,残りの質量をばね間の台車枠に負荷する機構とした主電動機の装架装置。」である。
 「つり掛」とは主電動機を台車枠に「吊り」、車軸に「掛け」ることから名付けられた。主電動機の重量のおよそ40パーセントから半分は台車枠が支持しているものの、固定はされていない。残りの重量は主電動機を固定する車軸が負担しているのだ。
 JISではぶら下げるという意味をもつ「吊」をひらがなで表記している。この漢字は常用漢字でないからだ。ただし、JISはかぎなどで引っ掛ける際に用いられる「釣」を代用したことがある。JISE4001の番号32212には「電動機支持ベアリング(釣掛け式電動機用)」とあった。どちらの漢字を用いても意味は通ると思われるが、あくまでも「吊」としたいからなのか、それともまぎらわしいためなのか、JISは装置自体の名称にはひらがなを使用している。
 つり掛式支持装置が開発されたおかげで走行中に小歯車と大歯車とが離れることはなくなった。ところが、軌道からの衝撃や振動を受けても破損しないよう、双方の歯車ともどちらかというと歯と歯との間隔を広げ、歯も深くしなければならない。このため、発進や加速の際には大きなうなり音が鳴り響き、振動も大きい。これがつり掛式支持装置の欠点だ。
 欠点はまだある。歯車だけではなく、主電動機自体も軌道からの衝撃や振動に備えて頑丈につくらなければならない。とはいえ、あまり強固なものとすれば重量が増え、軌道への影響も増大する。出力や速度の向上には大きな制約が生じてしまうのだ。
 つり掛式支持装置の欠点を根本的に解消するには台車枠だけで主電動機を保持するほかない。こうして次項で取り上げるカルダン軸駆動装置(次回の「鉄道よもやま話」で紹介します)が開発され、いまや日本の電車の大多数がこの方式に移行した。ただし、つり掛式支持装置も構造が単純でなおかつ丈夫という利点をもつ。このため、いまでも電気機関車や電気式ディーゼル機関車に採用されている。
 さまざまな改良も施されてきた。主電動機を車軸に掛ける際、そのまま載せるのではなく、ばねやゴムなどの緩衝装置を介して支持させる装置が開発され、たわみつり掛式支持装置(JISE4001の番号32105)と呼ぶ。JISによれば、「主電動機の質量の一部を緩衝装置及び軸受を介して動軸に負荷するとともに,残りの質量をばね間の台車枠に負荷する機構とした主電動機の装架装置。」である。
 この装置はJR西日本とJR貨物のEF66形電気機関車に採用された。EF66形では主電動機と車軸との間にはゴムが挿入されている。1966(昭和41)年に試作車のEF90形(後のEF66形901号機)が登場した際の紹介記事には、「半釣掛け(台車装架)の採用」(井上等、「貨物の高速輸送と2人力のマンモス・ロコEF90形機関車」「交通技術」第21巻第6号、交通協力会、1966年、P224)、「中空軸可とう(筆者注、たわむという意味の可撓)駆動方式と称して新規な設計である」(同、P225)とあった。
 確かに「台車装架」は間違っていないが、主電動機の重量は相変わらず車軸でも支えているから、正確な記述とはいえない。何よりも「半釣掛け」「中空軸可とう駆動方式」という言葉がまぎらわしい。JISではこの装置の慣用語として半つり掛式支持装置、可とうつり掛式支持装置も存在すると記されてはいるものの、誤解を招きやすいと考える。
 まずは「半つり掛」について見ていこう。「半」と呼ばれることから、主電動機の重量をたとえば台車枠で75パーセント、車軸で25パーセントとするとでも改めたのかと勘違いしてしまうが、実際にはそうではない。重量配分はつり掛式支持装置とほぼ同じである。走行中に車軸に衝撃や振動が生じた場合、その衝撃や振動を主電動機に伝えにくくする程度の効果しかないのだ。
 また、可とうつり掛式支持装置や中空軸可とう駆動方式と呼んでしまうと、台車枠だけで主電動機を支えてかのように感じられる。まるでカルダン軸駆動装置の一種ではないかとの誤解を与えてしまい、あまりよいことではない。
 現在のEF66形を開発した際、国鉄の技術者たちは「つり掛」という古くさく、欠点の多い方式から何としても脱却したかったのだろう。しかし、1時間定格出力650kWの主電動機の出力をカルダン軸駆動装置で受け止めることはできなかった。苦肉の策としてつり掛式支持装置に改良を施したが、本来は台車枠だけで主電動機を保持させたかった――。このような気持ちが込められているのだろう。
 鉄道趣味6誌を見ると、「つり掛」の表記方法はさまざま。「つりかけ」「ツリカケ」「吊り掛け」「釣り掛け」などが存在する。表記の違いは個々の編集部の考え方だから、各誌の流儀に従えばよいだろう。
 問題はその呼び方だ。つり掛式支持装置と呼ぶ例はまれで、たいてい「つり掛式」と記載し、「支持装置」を省いている。それだけならまだよい。「つり掛モーター」という不思議な記述もしばしば見受けられる。
 つり掛式支持装置の「つり掛」とは主電動機を支える方法を表しているに過ぎない。だが、「つり掛モーター」と記してしまうと、その重量の一部を車軸に負担させている主電動機の一種のように思えるし、うなり音を上げる主電動機とも受け取ることができる。
 実は筆者は幼いころ、この記載に惑わされ、「つり掛式」とは主電動機の種類なのだと長い間思い込んでいた。もちろん、そのようなことは全くなく、つり掛式支持装置しか存在しなかった時代につくられた直流主電動機でもカルダン軸駆動装置を介して作動させればうなり音はしない。また、最新式の誘導主電動機でもつり掛支持装置を用いれば主電動機の重量は車軸も負担しなければならないし、うなり音も発生する。
 つり掛式支持装置は電動機台車装架駆動装置のなかでは最も古く、最も単純な方式だ。その割に詳しい説明がなされていなかったのはあまりに当たり前の存在だったからなのかもしれない。

つり掛式支持装置についてのまとめ

1.主電動機を台車枠に取り付ける方法の一種。台車枠と車軸とで主電動機の重量を支え、主電動機に取り付けられた小歯車と車軸に取り付けられた大歯車とがスムーズにかみ合うことで出力を動力へと変換する。
2.うなり音が大きく、車軸に伝わる衝撃や振動が主電動機に伝わりやすいという欠点がある。
3.主電動機と車軸との間に緩衝装置を設け、車軸からの衝撃や振動を伝えにくくしたたわみつり掛式支持装置も存在する。しかし、つり掛式支持装置の欠点は完全に解消されてはいない。


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