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「現代の谷暘卿(たにようけい)、青木槐三(あおきかいぞう) 吉村光夫さんの逝去を悼む」

 元TBSのアナウンサーであり、鉄道愛好家として名高い吉村光夫さんが2011年1月3日に急逝されてから1年が経過した。吉村さんに大変お世話になった身としては、昨年1月の段階で追悼文をしたためるべきであったことは重々承知している。ところが、あまりの衝撃に執筆する気力を失い、さらには多忙な日常に埋もれていた間に東日本大震災が起き、記すことができなくなったのだ。
「梅原君、早く何か書いてくれないかな。」
 天国の吉村さんはしびれを切らしておられるに違いない。しかし、筆者としては鉄道、さらには日本という国全体に生じた変化の流れに付いていくのがやっとであり、どうしても記すことができなかった。どうぞお許しください。
 そのような折も折、2012年1月8日に「吉村光夫さんを偲ぶ会」が催され、筆者もはせ参じた。鉄道趣味の大先輩、吉村さんが出演されていたTBSテレビ「夕やけロンちゃん」のアシスタントの方々、TBSのご同僚、吉村さんが特にお好きであった京浜急行電鉄からは元幹部の方、そして何より吉村さんが愛されたご家族の方々のスピーチを拝聴し、筆者も吉村さんの偉業を紹介しなければならないと痛感したのである。吉村さんのご功績についてはさまざまな方面で紹介されているので、インタビュアーとしての吉村さんを取り上げてみたい。

 月刊「頭で儲ける時代」(現在は廃刊)の編集を担当していた1994年、筆者は著名人へのインタビューページを担当する機会を得た。ベンチャービジネスに関連する雑誌であったので、インタビューのテーマはビジネスや金銭の話が主体ではあったが、あまり堅苦しくは定められてはいない。インタビュアーには吉村さんこそ最適と、早速依頼したのである。
 かつて勤めていた月刊「鉄道ファン」編集部時代から吉村さんと仕事をさせていただいた筆者にはいくつかの心配事があった。その最たるものは「鉄道に関する仕事でないのに依頼してよいのか」というものである。だが、打ち合わせの場をもったとき、吉村さんは開口一番自らに問いかけるように語りかけられた。
「インタビューといえば、ラジオでむかし僕はしゃべりすぎて、相手に『はい』とか『いいえ』としか言わせなかったんだよ。これはまずかった。だから、インタビューの相手にはどんどん自分の言葉で話してもらうようにしなければいけないね。」
 そう、吉村さんは筆者ごときの担当するインタビューのページに並々ならぬ意気込みを示してくださったのだ。そして、実際のインタビューでも筆者が舌を巻くような光景に何度も出くわした。
 まず、何と言っても会話が全く途切れない。インタビューの相手は男性あり、女性ありで年齢も吉村さんよりは皆年下ではあるが、20代から50代と幅広かった。にもかかわらず、吉村さんが繰り出される話題は豊富でなおかつつっかえるなどということもなかったのである。生放送で培われた職人芸と感心するほかない。
 次に、インタビューに要した時間も筆者が依頼した1時間と正確なら、吉村さんの質問とインタビュー相手の答えとを含めた言葉の数を文字に換算すると依頼した原稿の量にほぼ一致していた。これはもう神業としか言いようがない。やはり放送の現場で鍛えられた技なのであろう。
 三つ目は、吉村さんのもつ温和な雰囲気によってインタビューの相手が吉村さんに全幅の信頼を寄せ、気兼ねなく話していたという点である。インタビュー相手が初めて公表するような話を聞き出し、マネジャーさんが狐につままれた表情をしているのを見たのは一度や二度ではない。
 インタビュー相手がいかに吉村さんを信頼していたのかを示すエピソードを紹介しよう。アルベールビルオリンピックで銀メダルを獲得したフィギュアスケート選手の伊藤みどりさんへのインタビューもそろそろ終わりというころ、吉村さんは満面の笑みをたたえ「世界一のスケート選手の太股を触らせていただけませんか」と伊藤さんに依頼されたのである。
 言うまでもなく、吉村さんは若い女性の体を触りたいなどという邪な気持ちからこの言葉を発したのではない。ジャーナリストとしての使命感から、日本のスポーツ界の歴史に残る名選手の筋肉、それも世界で数人しか成し得なかったジャンプの源となる筋肉とはどのようなものかを真摯な気持ちで取材しようと試みたのだ。その気持ちはだれよりも当の伊藤さんが理解していた。間髪を入れず「いいですよ」とわずかにスカートを引き上げ、吉村さんの要望を承諾したのだ。
 伊藤さんの筋肉を確かめた吉村さんはすぐに「ありがとうございます。思ったとおり素晴らしいおみ足ですね」と謝意を伝え、いままでどおりの会話を続けられた。筆者も周りのスタッフも呆気にとられているなかでの出来事であったものの、当のお二人はそれが当然の行動というように顔色には何の変化も見られなかったのである。想像を絶する努力で栄光を手にした天才アスリートだからこそ、吉村さんが醸し出すジャーナリストとしての天才的な能力を直感的に見抜いたのであろう。
 実はこの模様を撮影した写真は誌面にも掲載させていただいたから、特に秘めたエピソードではない。ただし、いまではもう見る機会もない雑誌なので紹介させていただいた次第である。
 吉村さんは、ジャーナリストがすべきことなどを表だって教えるようなことはされていない。とはいえ、会話の節々から、筆者に何かを伝えようとされていたことはうかがえた。あるとき吉村さんは珍しく憤慨し、こう語っていたのを覚えている。
「スピードアップ、サービスの向上……。鉄道会社にはすべきことが山積みなのになかなか腰を上げない。難しいからだって言うんだ。でも面倒だからやらないというのであれば、朝起きるのだって面倒なんだよ。全くけしからんねえ。」
 鉄道会社にも言い分はあるとして、筆者にとって勉強となったのは「面倒なことを厭うな」という言葉である。ジャーナリストという立場に置き換えて面倒なものを3点挙げてみよう。調べることは面倒だし、当事者に聞くのも面倒、自らが正しいと思うことを主張して角が立つのも面倒だ。しかし、「これらを面倒だと考えるのであったら、ジャーナリストなどやめてしまえ」と、吉村さんは筆者に対して無言で説教していたのだろう。
 吉村さんはとても人には優しい反面、ご自分にはとても厳しい方であり、いつどのようなときでも新しいことを知りたいと願い、それを人に伝えるということを念頭に置かれていた。このような業績から、吉村さんは現代の谷暘卿(たにようけい。1815年〜1885年)、青木槐三(あおきかいぞう。1897年〜1977年)であると筆者は考える。谷は明治維新直後、民間人としては初めてそして唯一、鉄道の価値を認め、政府に鉄道建設を働きかける建白書を提出し、鉄道の利点を広く世間に知らしめた人物だ。また、青木は新聞記者として携わった鉄道について深く掘り下げた記事や著作物を多く発表し、日本の鉄道ジャーナリストの元祖である。両名とも日本の鉄道の発展に寄与し、鉄道史を語るうえで欠かせない。いずれ、吉村さんもいずれ鉄道部門で果たされた業績がまとめられるはずだ。
 いまごろ、天国の吉村さんは根っからのジャーナリスト魂で鉄道界の偉人たちにマイクを向けておられるのではなかろうか。伊藤博文、大隈重信、井上勝、立川勇次郎、後藤新平、島安次郎・秀雄親子、十河信二、日野原保……。広く海外に目を向けられていたからジョージ・スティーブンソン、ジョージ・ウェスティングハウス・ジュニア、ヴェルナー・フォン・ジーメンス、フランシス・キーレン・デン・ホランダーらにも――。どんなに気難しい相手でも吉村さんは決して物怖じすることなく、だれもが知りたいことを的確に質問されたに違いない。大隈には「日本の鉄道に狭軌を採用し、そのことで後々苦労したことについてどう考えているか」、ウェスティングハウスには「自身が発明した自動空気ブレーキ装置がいまでも用いられることを誇りに感じるか否か」、デン・ホランダーには「TEE(ヨーロッパ横断特急)の理念は今日のヨーロッパの列車に生かされていると思うか」と。それらの答えを筆者はぜひとも知りたいと願う。吉村さんのもとに筆者がうかがった際には、どうぞ面白おかしくお話しください。



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