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0系へのはなむけ

偉大な名車がついに引退する

 本日、2008(平成20)年11月30日、JR西日本の0系新幹線電車は定期列車としての運転に終止符を打つ。0系が営業を開始したのは1964(昭和39)年10月1日の東海道新幹線の開業日であるから、実に44年2カ月にわたって活躍してきたことになる。
 ここまでのところ、0系によって引き起こされた列車衝突事故、列車脱線事故、列車火災事故は起きていない。営業運転最終日やさよなら運転では相当な混乱が予想されるものの、最後までこの記録を維持したまま0系が役割を終えることを祈る。
 0系が名車であることは言うまでもない。一つ付け加えるとするならば、0系は強運にも恵まれていた。
 先ほど、0系には重大な事故による死者が一人もいないと述べたが、長い活躍期間のなかにはその記録が途切れる可能性もあったのだ。それは1973(昭和48)年2月21日(水)17時27分のこと。国鉄の大阪運転所(現在のJR東海大阪第一・第二・第三車両所)を出庫した回送第715A列車がスリップしたために本来停止する場所を通り過ぎ、営業列車が運転されている本線に出てしまった。このとき、後続の「こだま143号」がもしもあと400mほど回送第715A列車に近づいていたとしたら、衝突は免れなかっただろう。この件については拙著『国鉄形車両事故の謎とゆくえ』(東京堂出版)でも触れたが、まだ調査が足りないと痛感している。0系が引退しても、いや、引退するからこそ引き続き解明していかなければならない。

1985年8月12日が0系の有り様を変えた

 希代の名車といえども、正当な評価を下すことも筆者の使命なので、0系の負の面にも触れておこう。0系は1963(昭和38)年度から1985(昭和60)年度までの22年もの間、基本的な設計を変えぬままつくられてきた。このため、東京-新大阪間の所要時間は3時間前後と1965(昭和40)年11月1日以降、全くと言ってよいほど進歩しなかったのである。
 速度が遅いことによる弊害は多い。最大の問題は輸送力が落ちてしまうという点である。1本の列車が長々と線路を占拠しているため、増発できないのだ。
 一例を挙げると、0系最後の新造車が登場した1986(昭和61)年の11月1日に実施された列車ダイヤ改正で東海道新幹線に設定された列車の本数は1日235本だった。いっぽう、すべての電車が最高速度270km/hで走行可能となった現在、1日の列車の設定本数は75本も多い310本へと増えている。0系が東海道新幹線の主役を務めていたころ、特に「ひかり」の指定席特急券は取りづらかったが、いまはよほどのことがない限り、当日でも確保できてしまう。多くの人は気づかないが、これも0系を追い出したからこその成果なのである。
 もちろん、すべてが0系だけの責任ではない。速度が速く、なおかつ沿線の環境にも配慮した電車の技術の開発が間に合わなかったからでもあり、このころの国鉄が深刻な労使問題を抱えていた事実も影響している。
 しかし、1973(昭和48)年ごろに、いまも東北・上越新幹線で活躍する200系新幹線電車と同様のシステムをもつ電車が東海道新幹線に導入されていたとしたら、どうなっていただろうか。恐らく、東京-新大阪間は昭和50年代の半ばに2時間40〜45分程度で結ばれ、その結果、需要も増加し、列車の増発も行われていたに違いない。
 皮肉なことに0系の製造が打ち切られた1985(昭和60)年度の8月12日、0系の欠点が露わになってしまう。この日、東京(羽田)発、大阪(伊丹)行きの日本航空123便が群馬県の御巣鷹山に墜落し、乗員乗客合わせて520人の方々が亡くなるという大惨事が発生する。この事故と0系との間に何の関連があるのかとお思いだろうが、非常に密接なつながりがあるのだ。
 18時ちょうどに123便には大阪へ出張する人も多く乗っていた。もちろん、東海道新幹線という選択肢も存在する。しかし、当時東京-新大阪間で3時間08分を要する0系は、残念ながら多くの企業にとって費用対効果の優れた乗り物ではなかった。
 ここから先は筆者の知るある企業の人事管理担当者の逸話を紹介することとしよう。その人事管理担当者は運命の日、8月12日に何人かの社員を大阪に出張させる必要が生じた。折しもこの日は旧盆期間ということもあり、東海道新幹線の「ひかり」はどの列車も満席だった。そこで、人事管理担当者はまだ空席が残っていた123便の航空券を確保する。航空券を渡された社員のなかには、飛行機が嫌いなので新幹線で行きたいと拒否した人もいたというが、無理に乗せたのだという。その結果があの大惨事である。犠牲になった社員の苦しみがいかほどのものだったのか、そして人事管理担当者がどれほど悔やんだのかは計り知れない。
 このとき、東海道新幹線の列車がもっと速く走っていれば犠牲者の数はあるいは減ったかもしれないと痛切に実感した鉄道関係者も多くいた。初代「のぞみ」こと300系新幹線電車の開発はすでに始まっていたが、この日を境に開発は本格化したと言えるだろう。その意味で、「のぞみ」の実質的な誕生日は1985年8月12日なのだ。
 300系以降、新幹線の速度は飛躍的に向上した。旧モデルとなった0系は「足が遅い」まま過ごすことになり、1990年代後半以降は実質的に「少々速い在来線の特急電車」として生き長らえる。誤解してほしくないのだが、それでも0系の果たした功績は偉大だ。ただ、0系の引退に当たり、その功績を手放しで礼賛し、その後登場した電車を否定するといった相変わらずの論調に筆者は賛成できない。このため、本欄ではあえて暗い面も述べさせていただいた。そのほうが0系のスケールの大きさを実感できるし、何よりのはなむけになるものと信じる。


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