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1962年5月3日

憲法記念日に起きた悲劇

 5月3日といえば憲法記念日である。鉄道の歴史について深い関心を抱いておられる方ならば、1962(昭和37)年のこの日に起きた列車衝突事故を思い浮かべられるに違いない。
 列車衝突事故の名を三河島事故という。事故の経緯は次のとおりだ。
 1962年5月3日21時35分40秒から36分00秒にかけての間、東京都荒川区荒川3丁目16番〜6番の常磐線三河島駅下り1番線を走行していた貨物列車の田端操発、水戸行き第287列車(45両編成、水上憲文機関士)が、停止を現示していた三河島駅の出発信号機を約35km/hで冒進して安全側線に進入する。その際、先頭のD51形蒸気機関車の364号機(以下、D51 364)と2両目のタキ50000形タンク貨車タキ50044とが脱線。D51 364が隣接する常磐線下り本線をふさいでしまう。
 第287列車が脱線した直後、下り本線を約60km/hで走行していた上野発、取手行きの第2117H列車(6両編成、乗客約1200名、芳賀幸雄運転士)がD51 364と追突するような形で衝突。先頭車のクモハ600055と2両目のクハ79396が脱線し、常磐線上り本線側に飛び出す。
 21時41分から42分にかけての間、今度は取手発、上野行きの第2000H列車(9両編成、乗客約600名、高橋英治運転士)が約80km/hで両者の事故現場に進入する。先頭車のクハニ67007は第2117H列車のクモハ60055と激しく衝突して大破。2両目のモハ72549、3両目のサハ17301、4両目のモハ72635の3両は高架橋から転落してしまう。
 一連の事故による死者は乗客159名と高橋運転士の合わせて160名。負傷者は296名に達する。
 言うまでもなく、三河島事故の原因は第287列車の信号冒進だ。そして、第287列車と第2117H列車とが衝突した後に列車防護措置を取らなかったために第2000H列車が衝突し、被害を拡大させてしまった。
 事故後、国鉄は2つの対策を講じた。自動列車停止装置(ATS)の導入と、列車無線装置の導入である。前者は三河島事故の発生要因を、後者は拡大要因をそれぞれ根絶するためであることはもうおわかりだろう。

三河島事故後、国鉄が追放したかったものは何か

 このような記し方をすると、犠牲になられた方々には何ともやりきれない言い方となってしまうが、国鉄はこのような事故が三河島駅構内で発生するかもしれないと、ある程度は予測していた。常磐線日暮里-岩沼間の複線とその枝線である三河島-田端間、三河島-隅田川-南千住間とが平面で交差するという当時の三河島駅付近が運転上の要注意個所に指定されていたとの事実からも明らかである。実際に1950(昭和25)年1月26日21時45分には、取手発、上野行きの列車が本線を横断していた田端発、隅田川行きの貨物列車に衝突。6名の負傷者を出す事故を起こしている。
 三河島事故を伝える当時の新聞記事を見ると、現代と同様に識者のコメントが掲載されていた。筆者が興味深く感じたのはある高名な評論家のコメントである。いまの鉄道員はたるんでいる。昔は皆しっかりしていた云々という内容だった。
 もちろん昔の鉄道員のほうが偉かったということもない。たとえば、1916(大正5年)11月29日に東北本線下田-古間木(現在の三沢)間で発生した列車衝突事故は、古間木駅の助役と駅員が勤務中に飲酒したことが要因の一つだ。閉そく区間に列車が運転されているにもかかわらず、泥酔した助役はタブレット閉そく機を不正に操作し、他の列車にタブレットを与えたのである。
 三河島事故の発生要因について、国鉄は評論家の意見には全く耳を貸さなかった。なぜならば、第287列車の運転状況、そして事故後逮捕された水上機関士と機関助士との供述から「たるんで」いたとは全く考えられなかったからである。
 第287列車が三河島駅構内に進入した際、場内信号機は注意信号を現示していた。制限速度は45km/hである。実はこの時点で第287列車は信号の現示どおりに運転していた。安全側線に進入した同列車の速度が35km/hだったことからも明らかである。
 問題はここからだ。水上機関士は、出発信号機の手前300mでの喚呼を怠り、停止信号を現示している出発信号機に気づかなかったと供述している。これは、罪を軽くするためにうそを語ったと断言してよい。というのも、出発信号機が進行に変わると信じ、そのまま石炭を投入し続けたとの供述が機関助士から得られたからだ。
 つまり、水上機関士は故意に第287列車を停止させず、その結果、事故を引き起こしたのである。実を言うと、列車ダイヤ上、同列車に対して三河島駅の場内信号機が注意信号を現示していても、出発信号機は進行信号に切り換わると水上機関士は予測していた。ところが、不運なことに当日は第2117H列車が約4分遅れて三河島駅を出発したため、出発信号機は進行信号を現示することはなかった。予想を的中させられなかった代償はあまりにも大きい。
 国鉄にとっては、三河島事故が職員の怠慢によって発生したほうがまだ気が楽だったことだろう。しかし、現実には恐らくは優秀な部類に属する機関士がよかれと思って取った行動が大惨事を引き起こしたのだ。
 毎年ゴールデンウィークとなると、筆者の生まれる前に発生した三河島事故について思い起こす。あの事故で国鉄が本当に追放したかったのは何だったのだろうかと。それは、ときとして誤った予測を行う優秀な職員、そして性能が悪いうえに運転技能の差が現れやすい蒸気機関車だったのかもしれない。


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