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42(よんじゅうに)

 いじめによる子どもたちの自殺が相次いでいる。拙著の読者にも多くの小中校生がいるので、皆さんがどうされているのか気になって仕方がない。鉄道が好きというだけで周りはどうしても偏見をもつ。だからいじめの対象になっているのではと心配だからだ。
 皆さんは、鉄道が好きな人への偏見をなくすことができない自分のような大人、そして偏見を助長するように仕向ける大人が憎くてたまらないことだろう。愚かな大人たちを許してほしい。どんなことがあっても現状を変えていくつもりだ。いまはもう少し待ってくださいとしか言えない。
 いじめに悩み苦しんでいる皆さんにどんな言葉をかけてよいのか途方に暮れている。そんな自分自身が何かを語るよりも、筆者が尊敬するある文筆家の文章が参考になるはずだ。http://jogjob.exblog.jp/d2006-11-07
 ここに書かれていることをできれば声に出して読んでみよう。悩みや苦しみは消えないかもしれないけれど、死ぬのがバカバカしくなったに違いない。そうなればしめたもの。嫌なことの半分はもう消えた。

 いま自分も声に出して読んだ。大人である自分が情けなくなった。そして、ようやく皆さんに言いたいことが頭に思い浮かんだ。鉄道に関連した話にしたいのだけれど、ちょっと違う分野にも飛び出すので許してほしい。
 頭の中には「42」という数字が駆けめぐっている。「よんじゅうに」と読む。自殺が相次いでいるからといって決して「死に」を連想したのではないよ。
 この数字はいまから60年も前にアメリカ大リーグのプロ野球選手が付けていた背番号だ。名前をジャッキー・ロビンソンという。知っている人も多いかもしれない。黒人初の大リーガーとしてブルックリン・ドジャースに入団した選手だ。
 いまのアメリカはそうではないのだけれど、このころは人種差別がひどかった。白人ばかりの大リーグのチームに入団したロビンソン選手も相当苦労したらしい。自分は中学生のころ同じアメリカのサンフランシスコ郊外の公立学校に通っていて、ロビンソン選手ほどではないけれど、やっぱり嫌な目に遭った。だからほんのわずかだけど彼の気持ちが理解できる。
 ロビンソン選手のことを知ったのも実はアメリカの中学校の社会科の時間だった。アメリカはひどい国だと思ったけれど、人種差別がいかに愚かなもので、自分の子どもの世代には絶滅させたいと考えていたこともこれでよくわかる。
 先生の説明に続いて映画が上映された。入団直後のロビンソン選手がチームメートとキャッチボールをしようとするのだが、だれも相手にしてくれない。試合に出ればブーイングの嵐。彼がなぜ野球を続けることができたのか。自分にはいまだにわからない。
 でも、ロビンソン選手は結果を残した。受け売りなんだけれども大リーグに昇格した1947(昭和22)年のシーズンは151試合に出て打率は2割9分7厘、ホームランは12本、48打点、29盗塁の成績だったという。新人王を受賞したのも納得がいく。
 ロビンソン選手はその後も大活躍し、首位打者やMVPなど、野球選手ならだれもがあこがれるタイトルを次々に獲得した。だけど、彼の最も大きな功績は、自らの活躍によって多くの黒人選手、そして白人でない選手たちに門戸を開いたことだ。
 いま、鉄道が好きな人たちが受ける世間の冷たい視線を和らげることができないのは、自分が大して活躍していないからだということがよくわかった。映画を観てから30年近くもたってやっと気がつくくらいだから、できないのも無理もない。

 この映画を観た後、中学生の自分は何となく元気が出て、休みの日に家の近所を走るサザン・パシフィック鉄道の列車の写真を撮りに出かけてみた。アメリカだからごついディーゼル機関車が大量の貨車を連ねて走り、ごくたまにやってくる旅客列車は同じくディーゼル機関車が2両ほどの客車を引くだけ。でも何もかもが魅力的な存在だった。
 父親から借りたカメラで撮影していると、近くに無線機をもった中年の白人男性が立っている。職員なのかと思ったらそうではなく、その人も鉄道が好きで見学に来ていたらしい。一言二言あいさつしただけなのだけれど、何だかとてもいいことがあったような気分になった。
 当時の自分がどれだけ感動したかというと、この話を文章にしたためてみんなの前で発表したことでわかってもらえるかもしれない。アメリカの中学校はもちろん、毎週土曜日に通っていた日本語補習校でもだ。清々しい思いをし、その感動を皆に伝えることがこれほど気持ちがよいとは想像もつかなかった。いまのいままで気がつかなかったけれど、このときの快感が忘れられないために自分はこうして文章を書いて生活しているのだろう。
 余計なことかもしれないけれど、授業でジャッキー・ロビンソン選手を取り上げてくれた先生は体格のいいおばさん先生。子どものころ中国からアメリカに渡ってきた人でミス・リムという。
 すごく厳しい先生なので当時は好きではなかったけれど、いまはわかる。子どものころの先生と同じような境遇にいる自分に期待をかけてくれていたのだ。だいたい、母国語でもない言葉をアメリカ人の学校で国語としてアメリカ人に教えるくらいマスターするなんて並外れた努力をしなければできない。それだけではなく、スペイン語まで教えていたし、教科書の執筆までしていた。学校の先生が嫌いな人も多いかもしれないけれど、1970年代終わりのアメリカ、それも田舎の片隅にこんなすごい先生がいたという事実だけ紹介しておく。

 ここまで書いた出来損ないの話で皆さんの悩みや苦しみがなくなるかどうかは疑問だ。けれども、そんなこともあるのだと心の片隅に置いてもらえればとてもうれしい。

 ジャッキー・ロビンソン選手は引退後、人種差別撤廃を訴える社会活動に多くの時間を費やしたそうだ。しかし、1972(昭和47)年に53歳の若さで事故死してしまう。
 いま、大リーグにはニューヨーク・ヤンキースのマリアノ・リベラ投手以外、背番号42を付ける選手はいない。ヤンキースでもリベラ投手が引退したり、他の背番号に変えれば、二度と42番を背負う選手は現れないのだという。なぜなら、ロビンソン選手の偉業をたたえ、彼の付けていた背番号42は大リーグの全球団で永久欠番になっているからだ。

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